行列の絶えないベーカリー『ブレッド&サーカス』。
その人気の理由は?vol.1
温泉郷・湯河原の一角に、全国から注目を集める名店『ブレッド&サーカス』があります。何度でも食べたくなる天然酵母パン。それが作られる背景には、個性的な店主の研究と、20年の経験の結晶がありました。
「ここに来たのは何回め?」
列に並んでいると、隣の人から声をかけられた。見れば、近所から来たと思われる軽装の人や、温泉帰りの旅行鞄を携えた人が、あちこちでパン談議に花を咲かせている。ラーメン店の前の行列のような黙々とした雰囲気とは明らかに異なる。ここは、パンを愛する人々が朗らかに集う場所なのだ。
神奈川県の奥座敷に位置する湯河原町。温泉郷として名高いこの町のもうひとつの名所が、小さなベーカリーである。取材したのは、今年最初の営業日。
酵母は粉と水から。
シンプルなのがいちばん難しい。
「どうってことない店だから、撮るとこなんかないでしょ?」
オーナーの寺本五郎さんの、暢気そうな、しかしどこか不敵さを漂わせた独特のムードに息を呑みつつ、奥の厨房へ進む。女性の職人たちが機敏に動く中で、黒一点の五郎さんの前には、成形中のカンパーニュ生地があった。ゆったりとした手つきで、柔らかな生地をまとめていく。経営者である五郎さんは、厨房の皆から「先生」と呼ばれる職人でもあるのだ。
「パン屋なんだから、粉からがいちばんいいんじゃないですか」と、自家製の天然酵母は、シンプルに粉と水を発酵させて起こしたもの。しかしこれが難しいんだ、と五郎さんは言う。
「粉の種類じゃなくて、扱い方。どういうふうに手入れをするとか、何回リフレッシュ(種を継ぐこと)するとか。レシピだけあっても、これがわからないことには、パンは作れないですから」
その独特の方法が成功しているのは、次々に焼きあがる多種多様なパンと、それを待つ人々の数が証明している。湯河原という地方の小さな町にあって、『ブレッド&サーカス』の看板商品は、カンパーニュやサワーブレッド、そして食パンやハードトーストといったシンプルな食事用のパン。いわゆる白柔らかなパンよりは、全粒粉やライ麦、雑穀、玄米などを配合したハード系のパンが圧倒的に多い。国籍もさまざまなこれらのパンがずらりと棚に並ぶ様子は、都心部の店でもなかなか見られないほどの充実ぶりだ。
「リアル」と名付けた意味を尋ねると、「さあ、どうだったかなぁ」と五郎さん。店頭に立つ妻の康子さんが笑いながら教えてくれたところによると、実はこれ、ネーミングに窮して臨時につけた名のままであるらしい。
「開店したとき、商品がカンパーニュばかりで、このパンにだけ、いい名前が浮かばなかったんです。本当に、最初は誰からも見向きもされなかったんですよ」(康子さん)
それでも、『ブレッド&サーカス』は、決して食べやすいパンに転ぶことなく、当初の姿勢を貫いて歳月を重ね、今、ここに堂々と存在している。
『クロワッサン』2016年2月25日号より
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