革命や国境を争う戦争に巻き込まれ他国に亡命したり、祖国を失った人たちは言葉に敏感だ。母語だけでは生きていけないから、いくつもの国の言葉を習得せざるをえないのだ。「そういえば一時期、何回も読み返した小説がある」と岸さん。それはアゴタ・クリストフの『悪童日記』。1956年のハンガリー動乱でアゴタ・クリストフはハンガリーからスイスに亡命して、ミラン・クンデラと同じように母語ではないフランス語で小説を書いた。
「『悪童日記』は3部作ですけど、第1部がいちばん好きですね。自分の父親の死体を乗り越えて国境を越えるところなんてとくに。人生の深い悲しみや運命がもたらしたどうにもならない悲劇を描いていますが、文章が簡潔で、心をグッとつかまれるんです。修飾語も何もなくて、しかも冷酷でリアリズムが徹底していて、笑いも涙もあり、エロティシズムもある。フランス語と日本語、どちらも読みましたが、簡潔な文章のなかに小説の持つエッセンスが見事に凝縮されているんです」
1984年2月7日、イランのパーレビ政権下で民衆を弾圧したオヴェイシイ元将軍がパリで射殺された。
「その場所がパリ16区にある友人宅の前だったんです。しかも私はその時刻に友人を訪ねるはずでした。巻き添えとなって死んでいたかもしれないと思うと、イランで何が起こっているのかをどうしても知りたくなって、2カ月後にひとりテヘランへ行ったんです」