【あの本を、もういちど。岸 惠子さん】50年間忘れていた小説との再会! 私には奇跡にも似た出来事でした。 | アートとカルチャー | クロワッサン オンライン
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【あの本を、もういちど。岸 惠子さん】50年間忘れていた小説との再会! 私には奇跡にも似た出来事でした。

折に触れて読み返したくなる本がある。たとえ読んだことすら忘れていても、再び手にした瞬間、記憶の扉が劇的に開かれ、鮮やかに感情が甦る本もある。今の自分をかたちづくるのは、人生経験とかつて読んだ無数の本だと言えないだろうか。新しい本を読むのも楽しいことだけれど、この夏は“再読”の喜びを味わってみたい。
  • 撮影・青木和義 文・一澤ひらり
女優、作家 岸 惠子さん

女優、ジャーナリスト、作家。長年パリを拠点に日本と行き来しながらインターナショナルな活躍を続けてきた岸惠子さん。その出発点は小説好きの文学少女。子どもの頃はまだ敗戦の疵が色濃く残っていた時代で、本を読むことだけが心の拠り所だった。
「いまも鮮明に覚えているのが、北畠八穂さんの『津軽の野づら』。〈凍み雪はうすら青んで、リリリ、と鳴る〉という文章があって、なんて美しく、胸に沁み入るフレーズだろう、と」

その後は夏目漱石や川端康成など言葉の美しい日本の小説を愛読したが、高校時代は仲の良い友人たちと『カラマーゾフの兄弟』『戦争と平和』といったロシアの長編小説を競うように読んでいた。
「けれど、人は自分が生きている時代を身にまとって生きていくんです。人も世界も移ろっていくものだから、読む本もそれに応じて変わっていくのが自然でしょ。いつまでも若い頃の本にこだわってはいられないですね」

85歳のいまも変わらぬ意志の強い瞳の輝きと、口角がきりっと上がった美しい笑顔で言われると返す言葉もないが、そんな岸さんにもある時ふと思い出し、興奮して読み返した本があるという。しかも再び手に取るまでに50年の歳月を要し、忘却の彼方に眠っていたという本なのだ。
「それはジョセフ・ケッセルの『幸福の後にくるもの』でした。全4巻の大河小説で、堀口大學さんが訳しています。たぶん19歳ぐらい、女優になりたての頃に読んだと思うのだけれど、これほど胸ときめく小説に出合ったのは初めて。もう夢中になって読みました」

リシャール・ダロー?  突如としてその名が浮かんできて。

岸さんの青春の書。『幸福の後にくるもの』全4巻(ジョセフ・ケッセル著、堀口大學訳/新潮社)。原題は『Le Tour du Malheur』。「そのまま訳すと”不幸の出番”ですけど、これも素敵なタイトルですね」

とはいえ、その後は女優として多忙な日々を送り、また、24歳で結婚してフランスへ渡るなど、小説よりも変化に富んだ生活で、『幸福の後にくるもの』の記憶はすっかり失われていた。それが思いがけなく甦ったのは、2003年に岸さんが初めて出版した自伝的長編小説『風が見ていた』を執筆中のことだったという。
「7年がかりで書き上げた小説なんですけど、それが大詰めに入った頃、テレビの連続ドラマの撮影と重なったこともあって、まったく筆が進まなくなってしまったんです。悩みに悩んで苦しみながらベッドで横になっていた時、ふっと夢うつつの中に『リシャール・ダロー』っていう男性の名前が浮かんできたんですよ」

誰だっけ? 最初はわからなかったが、記憶をたどって思い出した。その名前こそ、かつて寝食を忘れて読んだ『幸福の後にくるもの』の主人公ではなかったか。たしかあの本はいまも自宅のどこかにあるはず、とベッドから起きだした岸さんは家中を探し回った。
「私は本棚を人に見せるのが嫌いなんです。裸を見られているような感じがして。とくに好きな本を人目にさらすのは恥ずかしくて、本棚にも並べず、人目につかない所に置いてしまうんです。そして、ようやく『幸福の後にくるもの』を見つけ出した場所は、衣裳部屋の古いドレスの下でした」

50年間思い出すこともなかったけれど、埃をかぶりパラフィン紙のかかった黄ばんだザラ紙の本を手にした時、「ああ、これは私に青春の門を開いてくれた本だった」と、瞬時に若かりし頃が甦り、深い感慨を覚えたという。
「第一次世界大戦後のパリの若者たちの欲望と挫折が織りなす壮大なドラマで、弁護士のリシャール・ダローは聡明で俊敏、内に情熱と野心を秘めて、青年らしい潔癖さと虚栄と正義が交錯するとても魅力的な男性なんです」

リシャール・ダローが最初に弁護を引き受けたのは親友エティエンヌの母親殺し。法廷で無罪判決を勝ちとって、若くして名声と金を得るが、彼は放蕩に身を投じ、戦後の退廃した欲望渦巻く世界に飲み込まれていく。
「ストーリーはうろ覚えですけれど、登場人物がたくさんいて、それぞれに印象が残り、まるで煌びやかな一大壁画を見るようでした。しかも知性の裏側にうごめく抗しがたい肉欲、そういった青年の懊悩が耽美的、官能的に描かれているんですよね。若い私には刺激的だったんじゃないかしら(笑)。ケッセルは『昼顔』で知られていますが、そうした描写の巧みな作家ですね」
と話しながら、懐かしむようにパラパラとページを繰っていく岸さん。
「当時はスラスラ読んでいたはずですが、旧漢字、旧かな遣いなのでいまは正直読みづらいですね。半世紀ちょっとで日本語ってこんなに変わるものなんだと驚きます。言葉は時代とともに動いていきますね」

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