「73歳のいまの知恵をもってして30歳に戻れたら最強ね。でもそんなことはありえないし、神様に好きな歳に戻してあげるって言われても、いまが一番いいわね」
そうスッパリ言い切れるのが加賀まりこさんの小気味いいほどの潔さ。神田生まれの神楽坂育ち、竹を割ったような江戸っ子の気性そのままに、言いたいことを言い、やりたいことをやって自分を貫いた。そしてそれに伴う結果には、きちんと責任をとってきた。
「母親が、世間体を気にして生きるなんて最低だっていつも言っていましたから、その影響はすごくあると思う。私が未婚の母を宣言したときも、『思うようにしなさい』と認めてくれましたね。いまでこそシングルマザーという言葉があるけれど、当時は相当なバッシングを受けました。でも母は愚痴めいたことはひとつも言いませんでした」
デビュー当時から歯に衣着せぬ言動で、「生意気」「小悪魔」などと言われてきたが、それは自分で考えて、発言し、行動してきた証し。その自立した精神はこうした家庭環境によるところが大きい。
「父が大映のプロデューサーだったから、家には有名人がいっぱい来ていたんです。『ただいま』って帰ると美空ひばりさんがいたり。だから人見知りしないし、臆するっていうことは私の辞書にはなかったわね」
芸能界にデビューしたのは高校在学中の17歳のとき。ヒロイン役の女優を探していた監督の篠田正浩と脚本の寺山修司に路上でスカウトされたのが始まり。その美貌とキュートさで一躍トップアイドルになったけれど、20歳のとき女優を辞めるつもりで単身パリへ。
「演技ができたわけじゃないし、まだ20歳だったから、何か違うことができるって夢見たのね。それにびっくりするような貯金の額だったから全部使い切ってリセットしたくて」
トリュフォーやゴダール監督たちと交遊し、当時の日本円で600万円する豹の毛皮のコートを買うなど散財して持ち金が尽きたころ、転機が訪れる。劇団四季の浅利慶太から舞台『オンディーヌ』の出演を依頼する国際電話がかかってきたのだ。
「パリから帰国して、『オンディーヌ』の舞台に立ったけど、喉からしか声が出ないし、演技もどうしようもなくて、お願いして毎日舞台に立ちながら、劇団四季の養成所に通わせてもらったんです。発声、ダンス、パントマイム……、一般の研究生と共に学んだ日々が丸2年。結果、女優としてのベースを作っていただけて、すごくありがたかったですね。何の演技の勉強もしなかった私が、初めて女優というものに志願したっていう感じだったから」
舞台に立ちながら演技の勉強をするのが恥ずかしいとか、プライドが傷つくとか、体裁は気にしなかった。
「プライドって私の中では意味がないのね。興味を持ったらとにかく何でも扉をノックする。会いたい人には会いに行く。知らないことには挑戦してみる。自分から一歩踏み込んでいかないと何も始まらないでしょ」
好奇心旺盛で、それが子どものときから73になる今日まで全然変わってない、と快活に笑う。
「恋愛でもそうよ。相手から好きって言われるのは好きじゃないの。昔からハンターだから。自分が素敵って思った人にはトントンって扉を叩いて、『私はどうですか?』ってプレゼンして、『ノー』って言われたら『すみませんでした』って帰ってくるだけ。そこで傷つかない。だってその人だけが男じゃないから。そういう切り替えは私、世界一早いかもしれない。手袋を脱ぐ感じで忘れちゃうわね(笑)」