くらし

【後編】94歳、辰巳芳子さんからの伝言。生ハム作りを通して学んだ、生きること、考えること。

45歳にして料理家として立った遅咲きの人でもある。「それまで」と「その後」も、自身の中で熟成されていたものがありました。
  • 撮影・青木和義、小林庸浩 文・越川典子

「きれいな紅色。バゲットに 赤ぶどう酒があれば最高ね。」

「日常的に、こんな風景が食卓にあるといいわね。おやつやお弁当にもなるのよ」
「生ハム2枚にバゲット。にんにくのスープ、ソパ・デ・アホを添えれば、なお力がつくでしょう。日本の夏は年々酷い。頭を使って乗り越えなくてはね」

「仕込み」は、毎年、冷たい風が鎌倉の谷戸を吹き抜ける11月に行われる。

「今日は何本? 21本ね」

 1本10〜15kgの重さ。まず、大腿骨を外し、余分な血や水分を抜くのも重労働だ。

「ここが臭みのない生ハムを作るための大事なプロセスだから」

その後、肉の重さから割り出した分量の塩をくまなくすり込んでいく。その塩も、各地の自然海塩を使い分け、味の違いをみてゆくのだという。

「ヨーロッパでは岩塩を使うけど、ここでは海塩。日本の海の塩がいい」

塩に漬けたら、タイミングをみて冷蔵室に吊す。詳しい製法は非公開だが、湿度の高い日本ならではの工夫があちこちにみられる。

90代となった辰巳さんには、風の中の仕事はきつい。時々、裏庭に下りての監督仕事。手順は上々。愛弟子4人と手練れのシェフ2人、総勢6人での大仕事だ。朝から昼食をはさんで夕方近く、作業は終了。寒さの中で、脚も腰も背中もちぢかんで痛む。道具から長靴までをすべて洗い上げ、辰巳さんの待つ台所に集合した。

「2本、持ってきて。味をみなければ」

号令がとぶ。試食会が始まるのだ。

辰巳流は、生ハムの台など使わない。キッチンの引き出しに紙を敷き、そこにずっしりした重みの1本をガッと挟み込む。自分の腹でぐっと押さえ、ナイフで周りの固い部分を切り取る。次第に、美しい赤い肉色が見えてくる。

「おお、きれいだ!」

「まず1枚ずつ味をみて。どう?」

「こっちの2年目のもの。上等、上等。うまくいったね。もう一声、熟成させるといいね。力がつくわね。つくづく生ハムは夏の食べものだと思う」

辰巳さんの解説は続く。

「切るのは呼吸の仕事。呼吸に合わせて切る。この生ハム用のナイフ、50年使っている(笑)。刃が、こんなにちびてきてしまったけれど優秀なナイフです。バゲットにはさんで食べましょう。スペインでは、これが子どものおやつだったわね。男たちも仕事帰り、バルで頬張って、帰宅してから食事をする。赤ぶどう酒も出してね。それがなければ始まらないからね」

箱書きに「生ハム」とある専用ナイフ。長年「ハモン・クルード・ア・ラ・タツミ」を切り、刃がカーブを描く。
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