「ぶつかり稽古」の後味。│束芋「絵に描いた牡丹餅に触りたい」
友人夫婦は、見ているこちらがヒヤヒヤするような言葉の応酬をする。部外者の私たちが見たそのままを表現すると、それは「夫婦喧嘩」。でも友人はそれを「ぶつかり稽古」と表現。友人が私たちに心配させないように作り上げた表現かと思っていたが、「ぶつかり稽古」の何たるかを最近理解するようになった。
10年前から再び始まった両親との生活。当初は些細なことで喧嘩をする日々が続いた。当時のそれは、お互いを傷つけ、親子の縁を切りたくなるような一件もあった。いつでも出て行ってやる!と思っていたが、これまで、半日家出は数回したものの、今は必ず帰ってくる場所になっている。それは表面的にはあまり形を変えていない喧嘩も、繰り返すことで、ぶつかっても大怪我にならない場所や、守るべきところ、治療法などを心得るようになったからのように思う。ぶつかることをやめたのではなく、ぶつかり続ける中で、ルールを形成し、双方に必要なぶつかり合いが出来るようになったからだ。ただこの「ぶつかり稽古」が成立するのは、平等な立場が形成されているところにあるように思う。これがなかなか難しい。上下関係のある間柄はもちろん非成立となるが、一方が平等な立場だと感じていても、一方に被害者意識のようなものが芽生えると非成立。親子も夫婦間も、「ぶつかり稽古」ができるようになるには下地作りに時間や労力を掛けることになる。
私と父との会話は、昔から自然に口喧嘩に発展する。それを何度も繰り返すことがこれまた自然で、逆に避けられなかったことも手伝って、今や「ぶつかり稽古」の後味は決して悪くない。
あ、それは私の感想。父はどう思っているかしら。
束芋(たばいも)●現代美術家。近況等は https://www.facebook.com/imost
『クロワッサン』992号より
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