女として生きる日々の喜びや苦悩の中から、詩人として伊藤さんが紡ぎ出した言葉は、時間も空間も超え、説経節に登場する女たちや、それを語り、聞き、笑い泣いていた女たちと響き合う。鷗外の描いた女たちとも、もちろん、現代に生きる私たちとも。
「自分もいっぱいいっぱいで、なんとか自分を救おうと作品を書いてきたのですが、もしかしたら、無我夢中で書くうちに、同じような状況の人たちとつながって、読んだ人の気持ちをちょっと楽にするというような、救済みたいなことがあるのかなと気づきました。私は『私』のことばかり書いてきたけれど、実は『私たち』のことを書いていたんだ、と。詩人として、自分の言葉を使って人の痛みを取り、同時に自分の痛みも取る。そういうことをやってきたような気がします」
言葉を使ったまじないに、「痛いの痛いの飛んでいけ」というのがある。伊藤さんにとって、説経節や鷗外の言葉は、まさしくそんな存在だった。そして、伊藤さんの書く言葉は、現代の読者にとって、同様の存在になっている。