くらし

大畑友美さん「介護をした経験から描けた未来図」(1)【助け合って。介護のある日常】

  • 撮影・村上未知 構成&文・殿井悠子

「どんな形であれ父と母が生きている。その事実が心の支えでした。」大畑友美さん

大畑友美(おおはた・ゆみ)さん●兵庫県淡路市生まれ。日本航空国際線の客室乗務員として勤めたのち、複数の企業で働く。3年半の介護・看護生活を経て、’17年に両親を看取る。現在は淡路島で家業『大畑商店』を6年ぶりに復活させ、4代目に就任。

「こん歳になって自分の家に住めらんとは、情けないなあ」

生前の父・和嗣(かずつぐ)さんの呟きにドキッとした。母の洋子さんにがんが発覚、祖母も入院。淡路島にある大畑友美さんの実家の商売は滞っていた。

自分の仕事もあり、一人では何もできない父親を実家に一人置いては、自宅に帰れない。申し訳ないと思いながらも、週末を一緒に過ごした和嗣さんを老人保健施設に見送ろうとした矢先のことだった。

「ほんまごめん……。また来週帰ってくるから……」

心の中でそう答えた。2014年、友美さんが父親の介護で淡路島に通うようになったばかりの頃だ。

当時、大畑家の次女の友美さんは40歳。大阪の勤務先で管理職にあった。西宮に住む姉は仕事に母親の看護に子育てにと、日々追われていた。

「いろいろなことが一度に起こったので、とにかく今、誰の、何を、優先すべきかということを考えながら、動き回っていました。だから正直、父の認知症が進んでいく様子を見ても『頼むで……』と祈る気持ちで。でも父が『自分でもようわからん……』と何とも言えない表情を見せた時に、ああそうか、父の中でも葛藤があり、本人が一番つらいんだよな、と気づいてからは、父との向き合い方が変わりました」

一方、洋子さんのがんが発覚した時はすでに全身に転移が見られた。洋子さんは万事がまんの人だった。

「当時は、母のそういう性格が理解できませんでした。いつも人や家族を優先させて、自分はがまん。女性のそういう時代背景もわからずに。痛かったら痛いと言うてほしかった」

「どうして?」と「がんばらせてごめん」という思いが入り混じる。

「医師からは万が一に備えて最悪の事態の話を聞かされるので、母の病状を聞いては泣き崩れ、父の介護では大変な時も笑いに変えるように心がける、ということを繰り返していました」

米や味噌などの小売業を営む商店に生まれ、祖父、祖母、父、母、姉の6人で暮らした。

友美さんは介護、看護の身体的な大変さに加え、自身の感情も揺れ動く日々を過ごした。それでもこの暮らしを受け入れられたのは、3世代で商売を営む家に育ち、人が歳とともに動けなくなり老い衰えていく姿を子どもながらに見てきたから。

「祖母は92歳まで自転車に乗っていたし、私も小学生の頃から店にいるのが大好きでした。高校を出てからは一人暮らし、海外にも住み、人より自立して生きてきたつもりだったけれど、両親が亡くなって心が大きくぐらつきました。どんな形でも生きてそこにいるという事実が、根源的な支えになっていたんです」

両親の三回忌を終え、2020年、友美さんは淡路島に戻る。(続く)

『クロワッサン』1094号より

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