ジェーン・スーさんの家族の物語。父の「父でない」顔を初めて知ることで親子の関係が変わった。
撮影・豊田 都 文・嶌 陽子
「仕事に対する欲が深いところは父に似ています」
「一番身近な人のことをびっくりするほど知らなかった。この本を書いて、そのことを実感しました」
そう話すジェーン・スーさん。約2年前、自身の父親を題材にした『生きるとか死ぬとか父親とか』を上梓した。
「私は24歳の時に母親を病気で亡くしているんですが、母がどんな人生を歩んできたのか、本人から話を聞いたことがなかった。母の母として以外の顔をほとんど見ずに終わってしまったことに後悔があって。父では同じことを繰り返したくないと思っていました」
ただし父親と正面から向き合うには時間が必要だった。母親という潤滑油を亡くしたことで、スーさんが30代の頃までは、会えば喧嘩ばかり。一時は絶縁することまで考えたという。
「でも、気づけば私も40代になり、父も年老いてきた。このままだと父が亡くなった時、すごく後悔するだろうと思ったんです」
父の姿が平面から立体になり、距離を持って見ることができた。
戦争で空襲に遭い、目の前に焼夷弾が落ちてきたこと、戦後さまざまな仕事をしたこと、母親との出会い……。本では父の昔の話を少しずつ聞き出していく。浮かび上がってくるのは、魅力的でありながら瑕(きず)も少なくない、一人の男性の生き生きとした人生だ。
「仕事が好きで、仕事に対する欲が深いところや、人に信頼してもらうために努力するところは自分と似ているんだなと。こんな人と一緒に働いたら面白かっただろうなと思いましたね」
話を聞けば聞くほど、父を見る眼差しが変わっていった。
「“父親”という表札しかついていなかった人の平面的な像が、立体的に見えてきたんです。目に入る部分だけじゃない、総合的な面を知ることで、距離を持って父を見られるようになった。父だっていろいろな顔を持つ一人の人間なのに、『父親として何点』としか評価してこなかったんですよね。それをやめたら私もだいぶ楽になりましたし、親子関係もよくなりました」
本からも食事や街歩きをする父娘の、仲の良い様子が度々伝わってくる。
「喧嘩もよくしますよ。この間も腹が立ったので洗濯ばさみを投げました。うまくよけられて当たりませんでしたけど(笑)。爆発して修復が利かなくなる前に、親との“小競り合い”は時々しておいたほうがいいと思います。距離の取り方や感情の出し方の塩梅などがお互いに分かってきますから」
絶縁寸前だった時も、関係が改善した時も、常に父と娘を繋ぎ留めていたのは毎月墓参りする母親の存在だった。
「早くに亡くなった母はある意味神格化されていて、父と私にとっては宗教みたいなもの。関係が最悪だった時でさえ、毎月一度は一緒に母の墓参りに行っていました。それにもし母がずっと生きていたら、今の父と私の関係はなかったはず。母が通訳の役目を果たしてくれるので、父と直接コミュニケーションを取ろうとはしなかったでしょうから。そういう意味でも、母は命を賭して大きなものを残してくれたと思います」
リモートで生活をサポート、父と娘のプロジェクト進行中。
現在82歳。今なお元気なスーさんの父親だが、最近は以前よりも生活のサポートが必要になってきた。現在、スーさんは一人暮らしの父親を週に一度訪ねつつ、態勢を整えている。
「家事代行サービスをいくつか試してみたり、家の中の動線を整え直したりしているところです。父には『これはプロジェクトだから』と言っています。本人も意外と楽しんで取り組んでくれているので助かりますね」
ほかにも食事が偏りがちな父親にテレビ電話を使って料理を教えたり、ウーバーイーツで注文して父の家に食事を届けてもらったりと、リモートでの新しいサポート方法も編み出し中。老親の世話と聞くと大変そうだが、スーさんは「楽しい」と話す。
「もともと問題解決が好きなんです。それに、この経験もいずれは本にできると思えるから(笑)。親の老いをあまり深刻に捉え過ぎず、プロジェクト化して面白がるとか、外に発信して周りの人と共有したほうが私は気楽です。そのほうが親の老いと客観的に向き合えると思います」
毎日連絡を取り合い、父親の安全と健康を気遣うスーさん。優しいですねと思わず言うと、「そんな美談じゃないんです」という答えが返ってきた。
「父の面倒を見るのは完全に“保身”です。『母の看病の時、もっとできることはあったはず』と今でも後悔が襲う時があります。父の時に同じ思いをしたくないだけ。今はすでに『やれることはやった』という心境で、いつ父に死んでもらっても悔いはありません。とはいえ、まだまだ長生きしそうなんですけどね(笑)」
「プロジェクト化すれば、親の老いも客観的に捉えられます」
『クロワッサン』1027号より