奈良・東大寺の長老から受け継いだ蓮を育てながら、母を看取るまでの時間を描いた「蓮葬(はすおく)り」、白塗りメイクの舞踏集団を率いるマロの誘いで舞台を踏むまでの顛末を語る「戯れの魔王」。毎朝窓から遥拝してきた甲斐駒の奉仕登山に挑んだ「アマテラスの踵」、作業場に瀕死の子猫が迷い込んでくる「ささらほーさら」と、ここにはいつもの暮らしから切り取られたひとコマが収められている。
「習ったことはないけど、茶も点てるよ。好きな茶碗で飲みながら、窓の向こうの甲斐駒を眺めたりしてね。冬は山のてっぺんがよく見えるじゃない、そうすると距離感がふっと消えるときがあるんだよ。ここにいるオレが、一瞬、あっちにいるような。世界がオレと山だけという感じ。きざに言ってるわけじゃなくて、そういう瞬間が本当にあるんだよ」
そうした、時間と空間がふと交差してなくなるような感覚は、舞台の上でも訪れる。マロさんの演出する舞台本番で、極度に緊張した瞬間、昔パレスチナで死と隣り合わせになった記憶がまざまざと甦り、我を忘れたのだという。
「そのときは、かつてのパレスチナの光景がわーっと頭の中にくるんだよ。甲斐駒観てるときと一緒で、此処ではなくなっちゃう。それはそれでおもしろかった。ジジイになって、あの世とこの世の距離がなくなっていく。あの世なんてすぐそこにもあるしな。うんと遠くじゃない。ふっと何かを観ていて、あの世とこの世が曖昧になっていったらいいな」
今は山での生活、時々東京、というのが、よい距離感なのだと語る。山では、ひとりでいても退屈でもなければ寂しくもない。その“なんでもない”という状態になるのが、またよいのだと。ひとりといっても、植物や虫、蛇にイノシシ、猿たちに囲まれ、時には子猫が迷い込む。骨太な筆致で細やかに描き出されるのは、儚くて力強い、たくさんの命だ。その、溢れんばかりの命の物語を、じっくり噛み締めながら味わううち、いつしか心の栄養になっている……そんな、4編がここにある。