女性映画の巨匠として世界的な名声を手にする溝口健二監督の、初期代表作『祇園の姉妹(きょうだい)』。1936年(昭和11年)に公開され、当時19歳だった山田五十鈴は、オープニングからシュミーズ一枚で登場するこの“おもちゃ”役でスターとなりました。
若さと美貌、流麗な京都弁。男好みの“女らしさ”の塊でありながら、花街の構造的女性差別を怜悧に見抜き、その世界に飲み込まれてたまるかと、舌鋒鋭く斬りまくります。昭和11年にこんなガチフェミニストが映画に登場していたとは驚きです。演じる山田五十鈴の、パンチのある個性あってこそ成立する最高にヒップな役ですが、なにかが、どうも、引っかかります。この違和感は何!?
姉妹のキャラクターの対比とプロット、センス溢れるカメラワーク、女性の明け透けさが魅力のセリフなど、美点を挙げれば数限りないけれど、どうも底の方にはひんやりさせられるものが流れている気がするのです。それは、おもちゃが酷い目に遭い、悔し涙を流すラストシーンの非情な突き放し方で明らかになりました。
女性が女性であるからこそ味わう不幸や不遇。それを溝口は、美しいもの、感動的なもの、映画的なものとして描きます。女性の不幸をリアルに描けば描くほど、偉くなっていった溝口健二。だけどその映画には、女性への救いの手は差し伸べられていない。現代の感覚で観ると、これも一種の女性のスポイルに思えてならないのでした。