折に触れページをめくりたい、童心に戻れる美しい絵本。
撮影・岩本慶三 文・一澤ひらり
美術学校に行かず、人に師事せず、独学で絵を描き続けてきた。
安野さんの斬新な発想力と豊かな描写力が融合して、アルファベットを知的遊び心で絵解きしたのが『ABCの本』。国際的に評価された傑作だ。
「『ペンローズの三角形』の名前で知られる、絵には描けても実際に形にすることはできない不可能図形をもとにして、Aの文字を描くことを思いついたんです。AからZまでの26文字をそういうひねった形で描いたら面白いとね。しかしこれは熾烈な挑戦になりました」
この絵本はイギリス、アメリカでも同時発売されることになったため、両国の編集者たちとディスカッションしながら、1語ずつ描く絵を決めていく作業となったのだが。
「Aは最初にAngelの絵を描いたんです。少年の背にとまった白鳥が天使の羽に見えるようになっている絵でした。ところがギリシャ神話の天使とキリスト教の天使は違う。これはキューピッドに近いとか言われて、いきなりつまずいてしまいましてね。いっそ、『Anvilにしたらどうか』と。初めて聞く単語でしたけど、金属加工で使う鉄床(かなとこ)のことなんです」
すべての文字がこの調子で、作業は難航。褒められたのは、Eのイースターエッグぐらいしか記憶にないそう。
「辞書さえあれば描けると思っていましたが、文化的背景が違うと同じ言葉でもイメージがまったく異なるんです。言葉を絵にするのは難しいことを知りました。まさにAで描いた鉄床のように、最初から最後まで叩かれ続けて出来上がった絵本なんですよ(笑)」
美術学校にも行かず、誰に師事したわけでもなく独学で大好きな絵を描き続けてきた安野さん。
「自分が描きたいものを描いてきたし、アイデアもいっぱいありましたからね。その素地になったのは、子どもの頃からたくさんの本を読んで考える力を養ってきたことでしょうね」
無類の本好きとしても知られる安野さんだが、美しい絵を描くには美しい言葉に触れることが大切だと言う。
「文学作品に接することは、物語だけでなく、詩から受けるような美しさに心を動かされる感情を培うことになります。美的感受性を養うには、本を読むことが一番だと思っています」
なかでもぜひ読んでほしいとすすめるのがデカルトの『方法序説』。「良識はこの世でもっとも公平に与えられているものである」という書き出しに魅せられて、心の糧としてきた本だ。
「情報が氾濫する時代だからこそ、何が本当かを考えることが肝要です。その力をつけられる本だと思いますね」
美しい絵を描く。そのすべての源は人間の考える力にほかならない。
安野光雅(あんの・みつまさ)●絵本作家。1926年、島根県津和野町生まれ。1968年、初めての絵本『ふしぎなえ』を出版。国内外の数多くの賞を受賞。
『クロワッサン』979号より
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