手相観の日笠雅水さんの人生を変えた、ジュリーの“黄金の人差し指”。
撮影・青木和義 構成&文・中條裕子
テレビ画面でジュリーが指さした、その瞬間に全てが決まったんです。
“あの瞬間”があったから今の私がいる、と日笠雅水さんは断言する。
それは地元、岡山・倉敷の中学に通っていたころ、夏休み明けの教室で友だちからザ・タイガースが載った芸能雑誌を見せられて、「誰がいい?」と聞かれるもメンバーの顔もわからず……という出来事があったあと。たまたま観ていたテレビの画面で歌う沢田研二さん(ジュリー)を目にしたときだった。
「突然、沢田研二さんがアップで“君だけに〜”と歌いながら、振りで手をこちらにかざして指をさしていて。その瞬間、人生のツボを全部押された、というか。そのときの衝撃が、私の人生を変えたわけですよ」
ザ・タイガースの「君だけに愛を」という曲で、沢田研二さんがサビで“君だけに〜”と歌いながら指さすポーズは、当時“黄金の人差し指”の異名で呼ばれた。それが画面を通して自分をさした、その瞬間に日笠さんは「私が行く場所は“あちら側”なんだ」と確信した。
そこから、音楽が好きになり、沢田さんが出演するラジオにリクエストはがきを書くという日々が始まった。同じころ、あることから手相に興味を持つように。
「ジュリーが自分の手形を芸能雑誌の付録に載せていて、その手を見たときに初めて手相を意識したんです」
家に1冊だけあった手相の本を手に取って読んでみると、「手相ってそのまんま人の相、どういう感じの人なのか、どうなっていくのか、何か読み取れるような気がした」という。
ラジオ局のバイト時代にも手相が観られると評判に。
その後は「“あちら側”へ行く」という気持ちを全うするため東京の大学へ進学、はがきをよく出していたニッポン放送にアルバイトとして通うことに。ラジオで放送するリクエスト曲の整理などをしているうち「手相が観られる子がいるよ」と、だんだんと評判が広がっていき、さまざまなミュージシャンからも声がかかるようになる。
「そんなアルバイトの契約終了が近づいたころ、レコード室にこもっていろいろな音楽を聴く中、この人の音楽をもっと世に知らせたい!と感じたのが細野晴臣さんだった」
さっそく細野さんの事務所に電話をすると、日笠さんの名前を手相をよく観るアルバイトだと知っていた担当者が電話に出て、プロモーターとして採用が決まった。後に事務所が解散すると、細野さんのパーソナルマネージャーに就任し、そこから「イエロー・マジック・オーケストラ」(YMO)の伝説が始まることとなる。後のメンバー結成にも日笠さんは深く関わっている。
「大貫妙子さん宅で仲間内で鍋を囲んでいるとき、そこにいた教授(坂本龍一さん)と話をしていて。あまり日本のミュージシャンを褒めないのに珍しく細野さんを褒めたので、なかなかメンバーが決まらないYMOのキーボードをやるのはどう?と話を振ったら、うなずいてくれて」
細野さんに連絡をしたところ「ちょうどドラムは(高橋)幸宏がいいと思ってたところだったんだ。スタジオ押さえてくれる?」と言われ、ほどなく3人で初のセッションが実現。当日、音を出した瞬間に細野さんと目が合い「これで決まったね!」と感じたのだという。あとは全てがトントントンという感じで話が進んでいった。
「世の中には私が手相で決めたという珍説もあるんですよ。でもそれもまた一つの要因。細野さんが強力だから、ほかの人だと“細野晴臣とあと2人”になってしまう。同じくらい才能も運気も手相も強くないと、YMOが目指していた正三角形にならない。本当に幸宏さんも教授も驚くほどいい手相で。手を観る私としてもこのメンバーはもう大納得、というくらい」
長く無料で手相を観ていたが、糸井さんの勧めもありプロに。
そうしてYMOが始動し、日笠さんは初代マネージャーとなった。
世界進出を果たしたYMOが大きくなっていく中で、フル稼働していた日笠さんは、いったん音楽業界を離れる決心をする。そのころ知り合いだった糸井重里さんからプロの手相観になるよう勧められるが、仕事にすることに抵抗があり、ミュージシャンのインタビューを記事にまとめるといったフリーランスのライターとして7年ほど過ごした。
「貯金がなくなりかけた34歳のころに、心配した両親からお年玉をもらい、情けない気持ちになって、『なんとかしなきゃ』と思ったんです。それまで周囲にすごい人たちがいて私の“コバンザメ運”は最高だったけど、なんだか“一匹狼”になりたかった。
何ができる? と考えたとき、需要があるのは手相なんですよ。当時かかってくる電話の9割が手相観の依頼。それまでは無料で観ていて、お金をもらうことには抵抗があったけれど、糸井さんもずっとプロになりなさいと言ってくれていたし。自分からは絶対に来てくださいとは言わず、自然と口コミだけで来る人が途絶えるまで続けようと誓い、お金をいただくことにしたんです」
が、それが途絶えることはなく今に至っている。そこからまた広がる縁もあり、実は清水ミチコさんもその一人。個人的に手相を観る機会があり、今では連絡を取り合う仲に。日笠さんが保護猫を引き取る際に、保証人になってもらったり。
そんなふうに次々とさまざまな縁を繋いで今があるのも、その出発点には沢田研二さんがいた、と日笠さんは語る。沢田さんのいる“あちら側”へという思いを揺らがず持ち続けることで自然と道が拓けてきた、それだけは間違いないのだ、と。
◆日笠さんの振り返る“あのとき”。
1978年ごろ
1980年ごろ
2001年ごろ
2018年ごろ
『クロワッサン』1108号より