梯久美子さんはデビュー作のノンフィクション『散るぞ悲しき硫黄島総指揮官・栗林忠道』を刊行したばかりで、本来は島尾ミホの評伝が第2作になるはずだった。
「4度目の取材で『そのとき私は、けものになりました』と、ミホさんは夫の不倫を日記で読んで精神の均衡を失った瞬間の話をしてくれました。でも半月後に取材を取りやめてほしいと告げられ、本にすることをあきらめたんです」
ここまで話を聞くと、天井がピシリと軋むように鳴った。
「ミホさん、すみません……」
神秘的だったミホさんを慈しむように梯さんがつぶやいた。
取材を断られた1年後、ミホさんの訃報が届く。島尾敏雄の浮気相手がどんな女性かわかってきたのは、その2年後だ。『死の棘』に名前も年齢も特徴も記されない、あいつとしか呼ばれない女性。