パンとクラフトビールの店、鳥取『タルマーリー』の発酵をめぐる終わりなき冒険。
撮影・三東サイ
『タルマーリー』は、鳥取県南東部の山あい、智頭町(ちづちょう)にあるパンとクラフトビールの店だ。
オーナーは渡邉格・麻里子夫妻。製造と商品開発は格さん、ビジネスと広報は麻里子さんがそれぞれ担当している。店の最大の特徴は、すべての製品を自家採取した野生の菌でつくっていること。
タルマーリーのパンの味は、ほかのどこのものにも似ていないと、食べた多くの人が言う。材料は菌と粉と水、塩だけ。噛みしめたとき、小麦の香りとともに複雑な旨みが広がる。本当の天然酵母とはこういうものか……と驚くうちに口の中に溶け、体にじんわり染みとおる。
健やかな菌の良い発酵、それを求めて2度の移転。
用いるのは麹菌、酵母、乳酸菌。なかでも麹菌は日本酒づくりに欠かせない日本固有の菌だが、野生での採取はとても難しく、デリケートに環境を選ぶ。そのため野生の麹菌を使う醸造家は少なく、ましてパン店はほとんどない。
渡邉家は野生の麹菌の採取に適したきれいな空気と、新たにビール事業を始めるための美味しい水を求めて、7年前に一家でこの土地にやってきた。
開業は14年前、最初の店は千葉県いすみ市。東日本大震災をきっかけに岡山県真庭市に越した。そののちの智頭への移転だ。
ビール事業を始めた理由は、パンづくりに使うビール酵母の安定した供給のため。これまで様々な酵母でパンをつくってきたなかで、「ともに麦からできるパンとビールは、きっと相性がいいはず」との直感が格さんにあった。
パンに必要なのは醸造の際に出る沈殿物だけなので「上澄みは飲んだり売ったりすればいい」と、ビールとパンを両輪に据えるものづくりの設計図が出来上がった。ふたりの熱意は地域も巻き込み、現在はパンの材料の小麦、ビールに欠かせないホップの栽培の一部を地元の農家に頼んでいる。
「菌と水と素材、全て地元でまかなう地域循環型のものづくりが理想です」という格さんの来た道、行く先とは。
きれいな空気、美味しい水。菌の幸せな環境は人も幸福。
面積の93%を森林が占める智頭町。周囲には中国山地の1000m級の山々が連なり、イザナギ・イザナミ伝説がある那岐山(なぎさん)が水源の土師川(はじがわ)が、町を縫うように流れる。江戸時代には参勤交代の宿場町、高度成長期には山林資源の町として栄えた。現在は、自然の中で心身を癒やす森林セラピーで町の魅力を打ち出し中だ。
「空気がきれいで、水が美味しい。それが最大の魅力」と麻里子さん。
タルマーリーの象徴である野生の麹菌の採取には、きれいな空気と清らかな水が必須だ。実際、智頭に来てすぐの夏にきれいな麹菌が採取できた。しかし菌にとっての環境はそれで完璧ではない。格さんは言う。
「去年の9月に、麹の採取に失敗して青カビが降りてきたことがあって。これまでの経験上、青カビが出るのはスタッフが疲れているときなんです。これはいけない、と2日間店を閉め、みんなで旅行に行きました」
また、これは前の岡山県時代の話だが、仕込んだパン生地がデロデロになり、うまく焼けないことがあった。原因も分からず困ったが、後でスタッフから〈結婚まで考えていた恋人とうまくいかなくなり悩んでいた〉と聞かされた。人間の状態もまた、菌にとって環境の一部なのだ。
挽きたての小麦粉には酵素があり、生きている。
生きているのは菌だけではない。タルマーリーでは現在、パンに使う小麦粉の2割を、近隣で栽培されたものを自家製粉して使っている。挽きたての新鮮な小麦粉は香りが高く味もいい。そして酵素があり、それも発酵に関与する。
「市販の小麦粉は製粉後、出荷前に2週間置くんです。活動しなくなるまで待つということ」(格さん)
しかしタルマーリーは、コントロールしにくい野生の菌と活きのいい小麦粉でパンを焼く。
「僕たちがしているのは、工房の中に自然を取り戻すこと。自然は本来揺らぐし、ブレるものです。野生の菌相手のパンづくりもそれと同じ。うちのものづくりは動的なものづくり。一日とて同じではない、その変化と不安定さこそが面白いのです」
一般に流通しているイーストは、発酵の安定性に特化させて純粋培養した菌だ。扱いやすく短時間で発酵し、失敗することはまずない。それは科学技術の勝利、と格さん。
「でもそれだと飽きちゃうんで。僕は楽しく働きたい。そのために、不安定であり、自分しかやっていないドキドキ感があるほうを選ぶ」
それに気候変動や災害の多い時代、買ってきた材料がないとモノがつくれないのは脆すぎる、と格さんは言う。
「誰も行かない道を行けば、いつか前人未到みたいなところに行けるかな」。そう微笑む格さんにとって、発酵の追究は、人生の冒険なのだ。
タルマーリーのパンをつくる野生の菌たち。
〈酒種(さかだね)(麹・乳酸菌・酵母)〉
日本酒をつくる酵母でつくった酒種。麹→乳酸菌→酵母のリレーで、これでつくったパンはもちもち・しっとりした食味に。