1972年、41歳の時に澤地さんは『妻たちの二・二六事件』でデビュー、本格的な執筆活動に入った。どの作品にも通底するテーマは、国や戦争に翻弄されてなお真摯に生きた無名の人たちの生涯を歴史の中に書き留めること。
「戦争は市井の一人ひとりに癒やしがたい傷を残し、それぞれの運命を大きく変えてしまいます。戦争に抗うために自分に何ができるか、という気持ちに五味川さんと通ずるものがあったのだと思います。彼もまた、勇ましさとは無縁の軍隊と戦争の現実を丹念に描写しました。そのことは『人間の條件』の読みどころの一つ、軍隊の実像が実によく書かれている点に表れています。軍隊という組織は徹底して上意下達の秩序と形式の社会です。毛布一枚畳むのも真四角の箱のようにしなければならない。個人という概念が入りこむ余地はありません。ある登場人物は元新聞記者のインテリで気が弱く、軍隊生活には到底なじめない。彼は上等兵クラスの中間管理職から束になっていじめ抜かれ、結局、自分に銃口を向けてしまう。敵との戦い以上に同胞間のいじめや飢えや寒さで命を落とし、敗残行では強奪や強姦を繰り返す無残な現実が緻密に描かれています」