フィルムノワールさながらの硬質なモノクロ映像、女たちは情念をドライに包んだ言葉で話し、男は飄々と仕事にかまける。イタリアのアントニオーニ監督が’60年代に追究したテーマを先取りしたような、突然変異的にクールなこの映画がどうして誕生したのか、ずっと不思議でした。一つ思い当たったのは、脚本を書いた和田夏十の存在。制作時期は、夫である市川崑が有馬稲子との不倫関係の真っ只中にあったと思われ、それが彼女にこの本を書かせたのではないでしょうか。
そう考えると、本妻役は和田夏十自身に、愛人の女優役は有馬稲子に思えてきます。山本富士子と岸惠子というタイプの違う美女二人が、雁首揃えて「あーたが殺しなさいよ」と押し付け合うシーンを、市川崑はどういう気持ちで撮っていたのか……。それこそ風のように、悪びれず仕事に熱中していた?
この脚本がすごいのは、意趣返しのレベルを大きく越えて、現代女性論であり現代文明批判になっているところ。「事務的なことの処理は大変うまくなるけど、心と心をふれ合わせることのできない生き物になってしまうのよ」の名セリフは、半世紀経った今もずしんと響きます。男性に心を求めることの虚しさを、凛とスタイリッシュに告げる。和田夏十は苦しみを、芸術に昇華させたのです。