潜伏キリシタンの歴史に触れる、長崎・五島列島への旅。
世界遺産に指定されている集落の教会を訪ねに五島列島へ。
撮影・黒川ひろみ 文・長谷川未緒
五島列島は長崎市の西方、東シナ海に浮かぶ大小152の島々からなる。手付かずの自然が残るこの美しい土地には、禁教下に潜伏キリシタンが移り住み、信仰を守り抜いた歴史があった。
1790年代、五島藩では農民が不足、いっぽう現在の長崎市である大村藩に属する外海地方では人口増加に苦慮していた。そこで両藩の間で「千人貰い」という移住の約束が結ばれたが、五島への移住者の多くは潜伏キリシタンだった。
島のガイド・坂谷伸子さんによれば、五島へ行けば自分たちの土地がもらえる。何より、厳しく取り締まられないと夢見た外海地方の潜伏キリシタンの間で「五島はやさしや土地までも」と歌われるようになったという。
1797年に最初の108人が福江島に着いて以降、大勢が新天地を求めて海を渡った。千人の予定が3千人にふくれあがったが、五島列島は山がちで耕せる土地は少ない。実際の生活は「五島は極楽、来てみて地獄」という過酷なものだった。
移り住んだ潜伏キリシタンは海の近くの谷間などで、苦労して未開地を切り開き集落を作った。土地を耕したり漁を手伝ったりの貧しい生活を支えたのは、自ら持ち込んださつまいもの栽培と、島のいたる所で咲く椿だ。島民らに習って、種を採取し油を採って生活の糧にした。
1865年、15名ほどの潜伏キリシタンが長崎市にある大浦天主堂を訪ね、その1人が神父に信仰を告白。「信徒発見」とよばれるこの出来事を機に、潜伏キリシタンの摘発が始まる。1868(明治元)年には五島列島でもキリスト教信仰を表明した集落に、五島崩れとよばれる厳しい弾圧が行われた。
この悲劇は大浦天主堂の神父により欧米に伝えられたため、不平等条約改正をめざす岩倉遣欧米使節団は、行く先先で迫害への批判を受け、1873年明治政府は禁教の高札を撤去。ついに250年に及ぶ潜伏は終わりを迎えた。
それからおよそ10年後、かつての潜伏キリシタンは教会堂を建て始めた。現在、五島列島には約50もの教会堂がある。2018年には「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が世界遺産になり、五島列島でも「野崎島の集落跡」「頭ヶ島(かしらがしま)の集落」「久賀島(ひさかじま)の集落」「奈留島の集落(江上天守堂とその周辺)」が登録された。
潜伏キリシタンの遺産群をはじめ見どころの多い島々の中で、今回は下五島(しもごとう)と呼ばれる福江島、奈留島(なるしま)、久賀島を巡った。
奈留島|江上天主堂(えがみてんしゅどう)
付近の湧水の湿度に配慮した、風通しのいい構造。
奈留港から車で約15分、木立の間から天主堂の文字をのぞかせるのが「江上天主堂」だ。白い壁にブルーの窓枠が愛らしいこの教会堂は、「教会建築の父」と呼ばれた大工・鉄川与助(よすけ)によって設計施工され、1918(大正7)年に完成した。
「40〜50戸の江上と宿輪の集落の信徒が、キビナゴ漁で得たわずかな現金から建設費用を捻出。当時にして5,000円とも2万円ともいわれ、今なら7500万から1億という金額でしょう。禁教が解かれた喜びと、強い信仰心ゆえ、生活費を切り詰められるだけ切り詰め、資金をまかなったのだと思います」(坂谷さん)
一般的な教会堂建築と異なり、江上天主堂は高床式。これは付近の湧水による湿気を考慮したもので、集落の民家と共通だ。内部は三廊式で、こうもり天井ともいわれるリブ・ヴォールト天井が美しい曲線を描く。柱は本目掻きと呼ばれる工法で、すべて手描きで作られている。窓もステンドグラスではなく、信徒たちが透明ガラスに桜の花模様を施したものだ。
●長崎県五島市奈留町大串1131 月・第3日曜休(月曜が祝日の場合は対応、翌日休)
訪問の際は要連絡
拝観無料
問い合わせ:長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
TEL.095・823・7650(10時~17時)
https://kyoukaigun.jp
島の歴史を知って、敬虔な祈りの場所を巡る。
1873(明治6)年に禁教が解かれると、それまで信徒の家や仮の聖堂を祈りの場としていたかつての潜伏キリシタンたちは、集落に教会堂を建て始めた。自身は生涯を通じて仏教徒だった鉄川与助をはじめ、大工たちが手がけた日本的意匠と教会建築の融合には心が動かされる。
椿の花をかたどった内部装飾など、この島ならではの細工が目を引く。建設資金が限られていた素朴な教会堂からは、信徒たちの信仰の強さを感じられるだろう。
久賀島|旧五輪教会堂
海辺にひっそりと立つ、日本で2番目に古い教会堂。
旧五輪教会堂は、海上タクシーか、細い山道を歩かなければ辿り着けない陸の孤島にある。1881(明治14)年に現在の浜脇教会がある場所に、仏教徒の大工により建てられた。
木造で潮風による傷みが激しく、信徒が増え続けて入り切らなくなったことで建て替えの計画が持ち上がった際、取り壊すならば五輪地区へ、と1931(昭和6)年に移築。道路が整備されておらず、大きな船もなかったため、解体された資材は筏に乗せて運んだそう。
長く祈りの場となってきたが、1985(昭和60)年、教会としての機能は隣に建てられた現在の五輪教会にゆずり、五島市により管理されている。
「大日本国憲法で信教の自由が明文化されたのは1889(明治22)年で、その8年前に建てられました。信徒さんたちは大変なご苦労がありましたが、教会堂を持てる喜びにあふれたのだろうと思います」(坂谷さん)
●長崎県五島市蕨町五輪
訪問の際は要連絡
拝観無料
問い合わせ:長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産インフォメーションセンター
久賀島|牢屋の窄(さこ)殉教記念聖堂
弾圧の苦しみを伝える信仰の聖地。
1868(明治元)年、久賀島内の信徒約200名が12畳ほどの牢に押し込められた。8カ月耐え忍んだが、病や飢え、拷問で42名が亡くなった。1969(昭和44)年に牢の近くに建てられたが、1984(昭和59)年に実際の牢屋跡に建て替えられ、現教会堂に。内部は絨毯が色分けされ、牢屋の広さがわかる。毎年10月末には殉教祭を開催。
●長崎県五島市久賀町大開 9時〜17時(ミサや教会行事の際は見学不可)
拝観無料
福江島|岩屋観音
岩の洞窟に祀られた愛らしい観音像。
一見すると荒々しい岩肌にしか見えない山の斜面に、人がひとり入るのがやっとの小さな洞窟がある。奥に祀られているのは、木材や布を使った手作りの観音像。観音平の谷合いに住み着いた潜伏キリシタンによるもので、キリスト教を信仰していると悟られないよう観音像をマリア様に見立て、ひっそりと祈りを捧げた。
●長崎県五島市戸岐町
拝観無料
観音平バス停から半泊教会までの間の山道にある。
久賀島|浜脇教会
五島列島初の鉄筋コンクリート教会。
最初の浜脇教会は五輪地区に移築(現旧五輪教会堂)。現在の浜脇教会は、カトリック信徒以外からの寄付もあり1931(昭和6)年に建立された。五島で最初に建てられた鉄筋コンクリートの教会で、当時にしては珍しく、大勢の見学者が訪れた。「戦時中は標的にならないよう、コールタールで黒く塗られました」(坂谷さん)
●長崎県五島市田ノ浦町263
9時〜17時(ミサや教会行事の際は見学不可)
拝観無料
福江島|水ノ浦教会
青空に映える白亜の美しい木造教会。
1880(明治13)年に最初の教会が建築されたが、老朽化にともない1938(昭和13)年に鉄川与助設計施工で、現教会に改築された。現存する木造の教会堂としては国内最大規模を誇る。教会裏の高台には、豊臣秀吉の命で、長崎で磔にされた26聖人のうちのひとりで五島出身の聖ヨハネ五島の像や、弾圧時代の牢跡もある。
●長崎県五島市岐宿町岐宿1643・1
教会内の拝観は現在中止。
福江島|堂崎天主堂キリシタン資料館
潜伏キリシタンの歴史をここで学べる。
最初の教会堂(木造)はマルマン神父により1880(明治13)年に建設。その後ペルー神父が煉瓦造りの教会堂建設を計画し、1908(明治41)年に野原与吉が竣工した。資材の一部はイタリアから運ばれ、内部は木造、リブ・ヴォールト天井。かつて五島の布教の中心で、神父らは児童養護施設や病院の創設も。現在は資料館として一般公開中。
●長崎県五島市奥浦町堂崎2019
9時〜17時(年末年始閉館)
拝観:大人300円
●島の観光案内については五島市観光協会 https://www.gotokanko.jp まで。また、NPO法人アクロス五島 https://goto-acros.net/index.html、五島市ふるさとガイドの会(TEL.0959・88・9075)でガイドを依頼できる。
島を彩る椿の園へ。
五島列島は日本有数の椿の産地で、自生するヤブ椿は1100万本とも。「千種千本」と島民が言うように、よく見ると花の色、咲き方など一本一本どこかが違う椿を楽しんで。
福江島|五島椿園
国際優秀椿園に認定の美しさ。
福江島のシンボル・鬼岳の中腹に位置する五島椿園。およそ6ヘクタールの敷地にヤブ椿と多彩な椿が約260品種、2800本も植えられている。ヤブ椿の開花時期は冬から春だが、様々な品種があるため長期にわたり花を観賞できる。香りのいい品種や奥ゆかしい和名品種、華やかな名の海外品種など、名前と花とを見比べながら回るのも楽しい。子どもが遊べる芝スキー場のある公園中央から眺める海と島々の景色もすばらしい。
●長崎県五島市上崎山町
TEL.0959・72・6111(五島市管理課)
無料
『クロワッサン』1116号より
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