山田雅人さんは毎週月曜から水曜日まで、東京から大阪の実家に通う。認知症の母親とデートをするためだという。
「2013年の秋に、父が亡くなったんです。ぼくの認識では、女性は夫が亡くなると元気になる。母は家のことばかりやってきた人だったから、これから友達と旅行に行ったりして人生楽しめるんじゃないかと、そう勝手に解釈していました」
それから3年経った頃、最初に母の変化に気づいたのは、山田さんの妻だった。
「家内が、お母さん、言動とかおかしいよ。なんだか寂しそうって。それで近所の人に話を聞いてみたら、朝から晩まで隣の神社のベンチに座ってるよって言うんです」
そんな話を聞いて間もなく、舞台帰りで実家に立ち寄ってみると、部屋から異臭がする。
「トイレが間に合わなくなっていたんですね。正露丸がやたら多くて。しばらくすると、汚れた下着がゴロゴロ出てきた。ああ、これはさすがにおかしいなと。それが認知症を疑ったきっかけでした」
病院に行き診断を受けたところ、要介護3の認定。服薬と月に1度の通院生活が始まった。最初は下の世話もあるからと妻に介護を任せていたが「介護は実の息子が看た方がいい」と言われてから、山田さんも参加するようになった。
「認知症と言っても、自分で産んだ子どもの記憶はあるんですね。妻の助言でそのことに気がついて。それからは覚悟を決めて、介護の勉強を始めました」
まず、認知症をテーマにした映画や本を、片っ端から手にした。
「娘さんが母親の徘徊を追いかけるドキュメンタリー映画があったんですよ。その作品を観て、認知症の人は無闇矢鱈(むやみやたら)に徘徊しているわけじゃないことを学びました。そこでぼくが自分で編み出したのはね、徘徊する母の半歩後ろを歩くこと。そうすると、行きたいところに行くから。毎日同じコースを歩くので、どこへ行くのかわかってくるんです。突然いなくなっても自転車でその道を辿れば、母を見つけることができました」
母は家を出ると、まず近所のスーパーマーケットに向かっていた。そのあとは、信号を渡った先にある商店街へ。お決まりの場所で小休憩をして通りの端まで歩いてから帰宅。それは、母が子育てをしている頃の買い物コースだった。
「あるとき男性の後ろをついていくことがあって。その人、ぼくに似ていたんです。ぼくはずっと東京にいたから、ぼくに会いたくて探していたんじゃないかな。悲しくなりました。こんなに寂しい思いをさせていたのかと」
自分を探す様子や、子育て時代を生き徘徊する母の姿を見て、山田さんは気づいたという。