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【あの本を、もういちど。岸 惠子さん】50年間忘れていた小説との再会! 私には奇跡にも似た出来事でした。

折に触れて読み返したくなる本がある。たとえ読んだことすら忘れていても、再び手にした瞬間、記憶の扉が劇的に開かれ、鮮やかに感情が甦る本もある。今の自分をかたちづくるのは、人生経験とかつて読んだ無数の本だと言えないだろうか。新しい本を読むのも楽しいことだけれど、この夏は“再読”の喜びを味わってみたい。

撮影・青木和義 文・一澤ひらり

「五月革命」「プラハの春」を体験。 祖国を失った作家に深く共感して。

本を読むだけでなく書くことも好きで、もともとは作家になりたかったという岸さん。感受性の強い多感な少女…

本を読むだけでなく書くことも好きで、もともとは作家になりたかったという岸さん。感受性の強い多感な少女にとって、書くことでしか癒やされないものがあった。
「中学3年生から高校1年生にかけての春休み、『梯子段』というタイトルの拙い小説を書いたんです。いとこの夫が川端康成先生の弟子筋で、読んでいただこうと高校生の時に会っていただいたことがあるんですね」
しかし、作家の深く澄んだ湖のような瞳にすべてを見抜かれたように感じ、とっさに座布団の下に原稿を隠してしまったという。
「緊張して桜湯の入った茶碗が手から滑り落ちて、お茶がスカートへこぼれていきました。懸命に畳を拭いたのを覚えています」

以後、作家の夢を封印し女優として一世を風靡した岸さんだが、フランス人の映画監督、イヴ・シァンピ氏と出会い、それまでのキャリアをあっさりと捨てて結婚のためにパリに旅立った。世界情勢も激動期を迎えていた。岸さんは1968年のパリの「五月革命」と、ほぼ同時期に起きたチェコスロバキアの革命「プラハの春」を現地で体験。それがのちにジャーナリストとして活躍するベースになった。
「五月革命の時はジャーナリズムの仕事がしたくて、マイクを持って学生に対するアジテーションを行うオデオン座へ行ったけれど、当時30歳は過ぎていたのに学生と間違えられてスクラムを組まされ、デモ行進したんですよ。催涙弾を浴びてもう死ぬかと思いました(笑)。その頃、夫はプラハで映画の撮影をしていたので、私は4歳の娘を連れてプラハに行ったんです」
折しもチェコスロバキアは〈人間の顔をした社会主義〉を唱え、自由化政策を推し進めた「プラハの春」の真っ最中だった。
「私はソ連軍介入の直前にフランスに戻りましたが、ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』がまさにこの凋落の時代を駆け抜けた男女の物語を描いています。クンデラはフランスに亡命し、母語ではないフランス語でこの作品を書きましたが、長い圧政下で鍛え抜かれた無頼と、乾いたユーモアが物語に奥行きを与えています。私自身もあの場所にいたわけですから、単なる文学作品としては読めません。もっと深く心に響いてくるんです」

孫文を支援した宮崎滔天の半生記『三十三年の夢』も愛読していた。
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ノンフィクションや紀行をよく読む。詩人の金子光晴とは親交があった。
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アゴタ・クリストフの 『悪童日記』。一時期、 何回も読み返しました。

革命や国境を争う戦争に巻き込まれ他国に亡命したり、祖国を失った人たちは言葉に敏感だ。母語だけでは生きていけないから、いくつもの国の言葉を習得せざるをえないのだ。「そういえば一時期、何回も読み返した小説がある」と岸さん。それはアゴタ・クリストフの『悪童日記』。1956年のハンガリー動乱でアゴタ・クリストフはハンガリーからスイスに亡命して、ミラン・クンデラと同じように母語ではないフランス語で小説を書いた。
「『悪童日記』は3部作ですけど、第1部がいちばん好きですね。自分の父親の死体を乗り越えて国境を越えるところなんてとくに。人生の深い悲しみや運命がもたらしたどうにもならない悲劇を描いていますが、文章が簡潔で、心をグッとつかまれるんです。修飾語も何もなくて、しかも冷酷でリアリズムが徹底していて、笑いも涙もあり、エロティシズムもある。フランス語と日本語、どちらも読みましたが、簡潔な文章のなかに小説の持つエッセンスが見事に凝縮されているんです」

1984年2月7日、イランのパーレビ政権下で民衆を弾圧したオヴェイシイ元将軍がパリで射殺された。
「その場所がパリ16区にある友人宅の前だったんです。しかも私はその時刻に友人を訪ねるはずでした。巻き添えとなって死んでいたかもしれないと思うと、イランで何が起こっているのかをどうしても知りたくなって、2カ月後にひとりテヘランへ行ったんです」

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