角田光代さんがエッセイで紹介。世田谷文学館の林芙美子展。『貧乏コンチクショウ─あなたのための人生処方箋─』
文・角田光代
あれもほしい、これも必要。
まず、大きな詩が私たちを出迎える。若くて、飾り気がなく、威勢のいい言葉たちだ。はつらつと啖呵を切るような、ときどきちいさくため息をつくような、芙美子の詩は、すっと私のなかに入ってくる。大きなパネルの下には、それぞれの詩が描かれた「コンチクショウ・カード」なるものがあって、ひとり一枚もらうことができる。
生原稿、衣服や小物類、メモ、手紙、旅道具、映画化されたときのポスターや台本、展示されたものの種類と数に驚く。いろんな方向から林芙美子という人を知ることができる。
何より私が目をみはったのは、旅行中に芙美子から夫・緑敏にあてた手紙と葉書だ。便せんなら便せん、絵はがきなら絵はがき、隅々までびっしりと文字で埋め尽くしてある。
町の様子や食べものや商店、市井の人たちの様子をつぶさに書き綴り、あなたに見せたい、あなたを連れていきたいと芙美子は書いている。パリへは好きな男を追いかけていったのに。そしてパリでもロンドンでも、べつの男と恋愛をしているのに。
林芙美子という人の、業を見た気がした。自身の恋愛のカモフラージュでもあったのだろうが、でもそのこまかい文字を見ていると、恋愛も必要だが安定もほしいのだと言っているように見える。旅も好きだが、帰る場所もほしい。この別ベクトルに向かう欲求こそ、林芙美子という人の業ではなかっただろうか。貧乏を嘆きながら、でも貧乏を書くとき彼女の筆は華々しく躍動する。自分は根っからの放浪者だと言いつつも、「何よりも愛らしい美しい家を造りたい」と、こだわり抜いた終の棲家を建てる。別ベクトルに向かう欲求を、無理にひとつにまとめたりせず、そのどちらをも満たそうとする。この業こそ、芙美子にものを書かせる原動力だったのではないか。
「私は人間の位階や地位や名誉なぞ紙屑のようなものだと思っている。」「今でも私の精神の根底はアナーキイだ。」展示の終わりに掲げられた芙美子の言葉だ。右へいきたいと願って右にいけば、左の道もいきたくなる。いきたくなるだけではなくて、実際にその足でいき、そしてまた、やっぱり右がいいと思う。でもどちらの欲求も、つねにひとつところから生じたものなのだろう。そのひとつところが林芙美子という人の核なのだろう。
林芙美子展は、いろんな方向からこの作家を見せてくれるけれど、どんな方向から見ても、おもてうらのない真正直なひとりの女性があらわれる。
角田光代(かくた・みつよ)●作家。1967年、神奈川生まれ。’05年『対岸の彼女』で直木賞受賞。最新刊は『ボクシング日和』(角川春樹事務所)。
林芙美子『貧乏コンチクショウ─あなたのための人生処方箋─』
世田谷文学館(東京都世田谷区南烏山1-10-10)にて7月1日まで開催中。林芙美子の原稿、書簡、絵画など約250点を展示。電話番号:03-5374-9111 営業時間:10時〜18時 休日:月曜 料金・一般800円
『クロワッサン』975号より
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