直秀ら盗賊団の流罪決定。盗賊なら、せいぜい鞭打ちくらいの罪のはずが流罪とは……といぶかる武官たち。出立は卯の刻、夜明け頃の時間帯だ。
直秀を見送りにまいろうとまひろを誘うあたりに、道長の暢気さが窺える。しかし。
時間よりも早くに居なくなった盗賊たちの行き先を検非違使の門番に問いただすと
「鳥辺野に」
鳥辺野!
この流れでその地の名を聞いて、青ざめぬ歴史ファンはいない。平安時代そこは風葬、鳥葬の地であった。風葬・鳥葬とはその名の通り、亡骸を置いて土に還す、あるいは鳥が啄むままにする葬送である。
道長がまひろを乗せて駆ける馬の両側に、森に分け入って進むふたりの周りに、累々と横たわる多くの屍を想像しながら観ていた。
そして、息絶えて烏が群がっている直秀ら―。
「愚かな」
「余計なことをした」
道長が自らを責める。人を殺さぬ盗賊であれば鞭打ちの刑で済んだものを、自分が検非違使に賄賂を握らせたために流刑となり、結果殺されてしまった。
盗賊を鞭打ちもくれず、腕の骨も折らずただ解き放つわけにはいかない。流罪なら鞭打ちより重い刑罰だし都から追い払える。しかし、道長の同僚が「7人も流罪にするには手間がかかる」と言った。967年施行の『延喜式(えんぎしき)』によると、流刑地は一番近くとも越前(福井県)と安芸(広島県)だ。流刑地までの護送は検非違使の仕事だろう。盗賊ごときにそんな手間をかけるのは馬鹿馬鹿しい、殺しても上流貴族である道長にバレはすまい。あとは烏が片づけてくれる……となったのか。
人の心の裏を読むことを知らず、中途半端な力を振るって友を死なせてしまった。
苦しんだのか、悔しかったのか。直秀は土を固く握りしめて息絶えていた。その手から土をはたき落とし、扇を握らせる道長。盗賊としてではなく、散楽の楽人として逝けるように。
『小右記』には、実資がわずか6歳の愛児を亡くした時のことも記されている。亡骸は東山の八坂の平地に置かせた。悲嘆に耐えかね翌日、人を遣わして亡骸を見に行かせたら「既に形無し」という答えで、ますます嘆きが深くなったと。弔いのあと人が立ち去ってすぐ鳥と野犬に食べられてしまい、その姿は親に詳しく伝えられる状態ではなく、ただ「形無し」と報告するしかなかったのではないか。
風葬、鳥葬が当時の一般的な葬送であったとしても、それに人々が心を痛めなかったわけではないということがわかる。
だからこそこの作品では、まひろと道長はふたりで穴を掘り、直秀たちを埋葬する。このままにしておくのはとても耐えられないと。