飯間浩明さんと牟田都子さんが語り合う「変わる日本語」。
新たに生まれ、変わり続ける言葉の世界に向き合う面白さとは。
撮影・黒川ひろみ 文・三浦天紗子 取材協力・三省堂
ふたりが訪ねたのは、東京・八王子にある三省堂の資料室。ここには、〝戦後最大の辞書編纂者〟見坊豪紀(けんぼうひでとし)が、たったひとりで、約50年にわたって集めた用例が大切に保管されています。その名も「見坊カード」。宝物を前にうきうきしている様子です。
飯間浩明さん(以下、飯間) これ、言葉が好きな人なら、誰でも興味を示すでしょうね。
牟田都子さん(以下、牟田) 興奮しますし圧倒されます。
飯間 これほどのワードハンティングを単身でなさったかと思うとね。
新しく生まれる言葉、変わっていく言葉。
牟田 いわゆる事務用のスチールキャビネットの引き出しに、こうやって収められているんですね。ひと区画に3つずつ。この引き出しの幅にぴったり合わせてカードのフォーマットも決めたんだろうなと思うと、実物を見ることの感動があります。
飯間 紙質も工夫されています。薄いけれども、しなやかですね。
牟田 罫の色も文字を書くのに邪魔にならない濃さ。本当にすごい。
飯間 このカードの中で、何か注意を引かれる言葉はありますか?
牟田 「絵文字」というカードがありました。用例は金田一春彦さんの新聞エッセイからで、昭和45年の大阪万博のレポートのようです。〈「トイレ」や「迷子預かり所」(略)などを、字を使わず、絵だけでわかりやすく説明した看板である〉と。絵文字という言葉は、今で言うピクトグラムの意味で使われていたんですね。
飯間 今の人が思い浮かべる絵文字は、SNSなどの文章で使うものですから、指すものが違いますね。
牟田 言葉はゼロから新たに生まれるケースも、もとの意味から変わってくるケースもありますが、そうやって生まれ、変化するのは、みんながどうにかして伝えたい、わかり合いたいと願った結果だと思うので、本当に興味深いです。
飯間 私たちは言葉を扱う立場上、「日本語の乱れをどう思いますか」などと、一緒に怒ってほしそうな質問をよく受けますよね。でも、私は怒りも不安も感じないんです。言葉の変化にはそれなりの理由があるので、変化を調べながら面白がっているところがあります。
牟田 私、“わかりみ”や“めっちゃ”をわりと使ってしまうんです(笑)。校正者としてはいかがなものかと思ったりもしますけれど、言葉一つ一つを取り上げて、正しい/正しくないとすぐに判断したがる空気は、私は危うい気がするんですね。近年その空気がとても強くなってきたと感じています。
飯間 的を「射る」と「得る」はどちらが正しいのか、というような話ですね。ある人にとっては一方が正しいかもしれないけれど、別の人にとってはまた別の正解がある。古い用法を確認すると、どっちもどっちだということはよくあります。
牟田 「煮詰まる」という言葉も。
飯間 本来の意味を言うなら、鍋が煮えて水分がなくなること以外にないですね。「議論が煮詰まる」「頭が煮詰まる」のどちらが正しい使い方かと言われますが、どちらも派生した意味でしかない。「『三国(サンコク)』(『三省堂国語辞典』の略称)では4つの意味を載せていますが、本当はこれでは収まりません。「沈黙が煮詰まる」「疲れが煮詰まる」など、辞書も捉えていない使い方はいくらでもあります。バラエティーに富んだ表現の存在を知ると、あだやおろそかに「これこそが正しい」なんて言えなくなる。
新聞、雑誌、テレビ、人々の会話。 採集された現代語、145万枚分。
牟田 もっとも私も、この仕事を始めるまでは、校正って言葉をジャッジする仕事だと思っていたんですね。
出版社勤務時代、私の指導役だった先輩があるとき、私がゲラ(校正用の試し刷り)に「この言葉はこういう使い方はしないのでは」と疑問を書き込んだのに対して、「校閲部にある辞書を全部引いてこれを書いたの?」と。
大慌てで引き直したら、その著者が書いてきたのと全く同じ用法が、『福武国語辞典』にちゃんと載っていたんですよ。『岩波』や『明鏡』、『三国』『新明解』と普段引いているものから引き始めて、さらに広げていって。辞書1、2冊引いて載っていなくても、6、7冊引いたら載っているかもしれないんです。
そういう体験を一度でもすると、全部引いてからでないと何も聞けなくなりますよね。
飯間 おっしゃるように、数冊の辞書に載っていないからといって、それだけで「その用法はない」と断定はできませんね。昔から使われているのに、どの辞書も見逃している言葉や用法もありますしね。
牟田 校正の仕事をすればするほど、文章を読めば読むほど、「この言葉は間違っている」などと安易にジャッジできなくなってきました。
昔もいまも変わらない、国語辞典への確たる信頼。
飯間 ところで、この記事が掲載されるころには、三省堂から「今年の新語2023」が発表されます。
牟田 SNSでもたくさんの応募があったようですね。もっとも、中には「『三国』を引いたらとっくに載っている言葉なのに」と思わずツッコミたくなるものもありました。
飯間 たとえば“爆誕(ばくたん)”が辞書にあると言うと驚かれるんですが、もう20年以上使われています。
牟田 「まだ辞書に載っていない」と思った人を責めたいわけではないんです。ただ、ふだんから辞書を手元に置いて引いている人はそれほど多くないのかな、と思うと寂しくなるというか。
飯間 辞書は皆さんが思うほど古くないですよ、と訴えたいな。現代の生活に役立つことを載せています。
牟田 ひところに比べて、みんな辞書を引かなくなりました。半面、辞書に対する信頼というのは、依然として根強いですよね。
飯間 SNSを眺めていても感じます。「辞書に書いてあるからこれが正しい定義だ」とかね。でも、辞書はあくまで言葉をわかりやすく説明するもので、そこに書いてない使い方を否定してはいないんです。
牟田 辞書を作っているのは同じ人間ですから、そんなに崇め奉らなくてもいいのにと思います。
飯間 そうなんです。辞書は正解を示すものではなく、言葉への理解を深めてもらうものでありたい。こんな使い方もあるよ、面白いね、と。それがうまくいってないのかも。
牟田 飯間さんは以前、辞書を作る身として、読者を騙しているような気持ちになるとおっしゃっていましたね。言葉には白も灰色も黒もあって、つながっているのに、紙面の都合で白と黒だけを載せる。それが辞書を作るというお仕事ですよね。そのジレンマが、私にも少しわかる気がするんです。
飯間 校正というお仕事にも、そういう面がありますか。
牟田 そうですね。ゲラに書き込む提案としては、ある程度白黒つけざるを得ないこともある。でもゲラを戻した後、いつまでも「あんなふうに聞いてしまってよかったのかな、乱暴じゃなかったかな」と。ですから、ゲラを戻してすっきりしたことなんて、いまだかつてないんです。何か読み間違えたのでは、余計なことを書いてしまったのでは、もっと辞書や資料に当たれたのではと。常に後悔というか、手放しがたさというか、罪悪感があるものを本当にもう引き剝がすようにして戻すので。
いまだ〝完成した辞書〟は この世に存在しない。
飯間 『三国』は第八版まで刊行されましたが、これは私たちがまさに命を削って作ったものです。以前のバージョンより絶対よくなっているという自信はあるんです。でも、これで充分だと胸を張れるわけではなくてね。まだまだ完成にはほど遠い気がします。
私たちは、おそらく決して到達することのない完成を求めてずっと旅を続けるんでしょうね。そもそも、言葉自体に完成形はありませんね。常に変化し続ける川面のようなもので、一つの固定した形に留めることはできない。そのつかみどころのなさが言葉の本質だなと、つくづく感じています。
牟田 まさしく同じ気持ちです。
絶えず変化していく言葉。変遷を知ると意外な発見も。
『クロワッサン』1107号より