大畑友美さん「介護をした経験から描けた未来図」(3)【助け合って。介護のある日常】
撮影・村上未知 構成&文・殿井悠子
「両親に守られている――、亡くなってから一層感じるように。」大畑友美さん
「あれ? 私、休みの日って何してたんやっけ……?」
淡路島に住む大畑友美さんは、2016年に81歳で認知症状のあった父親を、その11カ月後には74歳の母親を、がんで看取った。
「仕事以外の時間をすべて両親のことに使っていたので、両親がいなくなってぽっかり空いた時間や心の穴をどう埋めたらいいかわからなくて。余ったエネルギーを仕事に注ぎすぎて体調を崩したことも、街中や電車の中で父と母を思い出して急に泣き出すこともありました。とにかくあの頃は、よく泣いてばかりで」
仏事とはよくできたもので、故人を見送って1年間は法事・手続きで寂しさも感じられないほどに忙しく、落ち着いて揺り戻しのように悲しさがやってくる頃、三回忌が訪れる。
「そこで叔母が言うんです。80歳になってさえ“お母さーん”と泣きたいときがある。そういうときは、がまんせんと泣いたらええねんで。それも供養。でも、元気で笑いながら生きとるのが親はほんまは一番安心よ、と。それは、自分の人生を生きなさいってことなんですよね。そんなふうに周りの人に励まされながら、徐々に自分を取り戻していきました」
三回忌の翌年、大畑さんは明治時代から続く大畑商店を継ぐと決める。
「屋号がなくなるのがすごくさみしくて。自分がアロマセラピーのビジネスで独立したからこそ、商売が100年以上続くことの重みを実感しました。お店は米や味噌などを扱う小売業でした。介護で大変だった頃、寝ること、食べることが人間の基本だと感じて。腹に力を入れたいとき口にするのは、やはり淡路のお米と祖母直伝の味噌で作ったお味噌汁だったんです。その安堵する味を、淡路以外の人にも伝えたくて」
今は、代々懇意な間柄の卸さんや農家さんから学ぶ日々。
「不思議なことに、亡くなってからのほうが両親に守られていると感じるんです。近所の人も“あー、洋子ちゃんとこの!”と言ってよくしてくれて。ほんとに感謝しています」
思い出すのは、みんなで行った旅行など特別なことではなく、台所で母と交わした何気ない会話や口ぐせ、介護中の父が大好きな喫茶店巡りを一緒にしていたときに口ずさんでいた鼻歌や昔話……。
「たわいもないけど慈しみ深い、そんな時間が、今の私を支えています」
両親との思い出を胸に、大畑さんは自分の歩幅で暖簾を繋いでいく。
『クロワッサン』1098号より