『息』著者、小池水音さんインタビュー。「喪失を抱えた家族の姿を描いています」
撮影・永禮 賢 文・鳥澤 光
「喪失を抱えた家族の姿を描いています」
〈十年まえの冬、春彦そのひとが死んだ。その後は少しずつ、けれどたしかに、記憶や、春彦の手触りのようなものが時を追うごとに失われていった〉と言葉を紡ぐのは、弟を失った姉。子どもの頃、弟とともに患った喘息の発作のぶり返しに苦しむ姉の視点から、小説は静かに語られはじめる。
2020年に「わからないままで」で作家デビューした小池水音さんの3作目にして、三島由紀夫賞ノミネート作となった「息」。過去2作品で連なるものとして描出された“喪失”が、3作目では反復する波のように描かれる。
「“喪失”は、私が小説を書くにあたっての大きな主題のひとつです。『息』には自死した人物が出てきますが、小説のひとつの素材としてではなく、現実に連なる出来事として扱うことを意識しました。遺された家族のひとりひとりが、春彦を失ってからの10年という時間をどう過ごし、どう生きてきたのかを描いています」
家族を失った自身の体験と記憶を出発点に、喘息という体の記憶も呼び起こして執筆した。
「発作の最中に見える景色って、自分が幼かったということもあって今見えるものとは大きく違っていたんです。その違いについて描写を重ねたいという思いもありました。幸福な記憶ではないけれど、小説に書いたように、当時は喘息で苦しむ自分こそが本当の自分ではないかという感覚もありました」
喘息の描写は、ありありと伝えることを目指したという。
「他の人たちにとっては当たり前なはずの息ができない。でも熱が出ているわけでも血が流れているわけでもなく、外からは見えない。読んでくださる方には、息苦しく感じさせてしまうかもしれませんが、読み終えたあとに少しでも息をつけるような、何かがスッと通るような瞬間があればうれしいです。書いた私にとっては、言葉にしていく過程で、ぼんやりとした苦しみでしかなかったものに輪郭が生まれていった。それによって、小説として書くべきことを見つけていきました」
大切な人を失った悲しみは乗り越えるべきものなのか。
「祈りともまた違う、死者に対するアクセスはあり得ないんだろうか」という疑問を長く抱えているという小池さんは、「悲しみや悲嘆は、乗り越え、治癒されるべきものとしてとらえられることが多いですよね。でも、悲しむことでしか、亡くなった人に強く思いを寄せることってできないとも思うんです」と言葉を続ける。
「自らの意志で悲しみに取り組むことが僕には必要で、小説はそのためのよすがでした。記憶は時とともに薄れ、想像力は頼りないものになっていく。小説を読むこと、書くことは、そうした遺された者の変化を認めることにも、それをゆっくりと推し進める行為にもなるのかもしれないと感じます」
喪失を抱えて生きることの困難さと道行きの先に訪れる再生をたどる言葉が、柔らかな光を放つ。
『クロワッサン』1095号より
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