作家・翻訳家の西崎憲が気になる本、絹川柊佳著『歌集 短歌になりたい』。
小さく軽いけれど忘れないもの、を詠む。
文・西崎 憲(にしざき・けん)
作家、翻訳家。訳書に『青と緑 ヴァージニア・ウルフ短篇集』など。
〈わたしがわたしを守ってあげるシャーペンの芯を多めに詰める〉(p23)
なんとなく大人になったら待ちあわせに遅れないような気がしていたし、約束を破ったりしない気がしていた。大人になったら部屋を片づけたり、必要な準備は前夜にすませておくようになると思っていた。根拠などはなく、なんとなくそんなふうに考えていた。
そして同時に、大人になったら十分な給料を貰って、週末は恋人か友人と映画や美術館へ行ったり、その帰りに静かなレストランで食事をして、なんでもないことを笑って話しているだろうと思った。
そう思っていた。そしてそうならなかった。
不思議なタイトルの歌集『短歌になりたい』をこの世界に送りだしたのは絹川柊佳で、二〇一六年の短歌研究新人賞の受賞者である。作者に関するそれ以外の情報をこの本から得ることはできない。歌集にはたいてい後書きがつくが、この本にはない。後書きがないこと、それに装幀から伝わってくる印象は、欲がなさそうだ、というものだった。たぶんそういうことでもないのだろうが。
〈よくなるのを黙って待ってくれているホールケーキのような友人〉(p108)
〈小さいチョコ良いと思って撮ってみる みんな何してるんだろう〉(p125)
全体を通じて歌われているのは「なにかとともにあること」ということかもしれない。「なにか」がなんなのかはわからない、そんなことは作者にもわからないだろう。けれど「なにか」がわからないとしても「ともにあること」はわかる。ひとりで生きることは難しい。「ともにあること」を実感できなければ人は死んでしまうかもしれない。「なにかとともにあること」はときに軽く、ときに深刻に、日常の表側と裏側をゆっくり行き来する。
〈こいのぼりみたいに食べてこいのぼりみたいに吐いた中華食堂〉(p59)
〈まだ二番を歌っていないうれしいな二番の歌詞が大好きなんだ〉(p80)
〈帰っても帰り足りない 薄い月 脱いでも脱いでも裸になれない〉(p35)
たとえば友人は小さい頃、電車の席にすわると足が床に届かないので、床に足が届くという気持ちとはいったいどういうものかとしばしば想像したらしい。そして友人はいまでもそのことをたまに思いだすという。あ、短歌に似ている、とわたしは思う。小さく軽いけれど忘れないもの、いつもどこか、意識のポケットのようなところに入っているもの。
旧ソ連の作家ストルガツキー兄弟の作品に『ストーカー』という長篇がある。タルコフスキーの手で映画にもなっている。主人公は願いをかなえてくれるという物体を必死の努力で手にいれたにもかかわらず、結末で遠くに放り投げる。こう叫びながら。
「みんな、幸福になれ」
〈四つ葉かと思ったら三つ葉が重なってそう見えただけ プレゼントだよ〉(p150)
『クロワッサン』1079号より