【紫原明子のお悩み相談】朝会社に行くのがしんどいです。
<お悩み>
運がいいことに、新卒で入った会社から今の会社に転職して、会社の規模や風土も自分にあっており、同僚や上司にも恵まれています。そして何より、作っているサービスが自分が世の中に普及したいと心から思えるもので、毎日刺激的です。一日の終わりに、今日も仕事してよかったなーと思うほどです。
しかし、こんなに良い面があるのに、毎朝起きてから仕事に向かうまでの心が重いです。有給を使ってしまおうかな、通勤が面倒だし在宅勤務に切り替えさせてもらおうかな、と考えている自分がいます。(実際には、有給を消化するのがもったいないし、在宅申請するためには在宅が必要な理由を作らないといけないので嘘になるためやめます)
また、オフィスについてからドアを開ける前も、「今日も一日頑張ろう」と思えず「今日はどんな嫌なこと・大変なことがあるだろうか」と考えて憂鬱になってしまいます。しかし、仕事を始めて調子が出てくるとまあまあ楽しくなります。 毎朝これの繰り返しで少ししんどいです。なぜ、満足している仕事なのに、朝憂鬱になってしまうのだろうか、とずっと考えています。紫原さんのお言葉やアドバイスがもらえると嬉しいです。
(きなきなこ/都内の会社に勤務する26歳の会社員です。心の健康に寄与するサービスを作っています。 )
紫原明子さんの回答
きなきなこさん、こんにちは。最近寒いですねえ。こちらは今夜、白菜と豚肉のごま油鍋を食べました。きなきなこさんは、今日は何を食べましたか? 機会があったらぜひ教えてください。
さて、満足な職に就いているのに朝が憂鬱になってしまうというきなきなこさんのお悩みです。お手紙を拝見する限り、私はふたつ、可能性があるのではないかと思いました。
ひとつは、仕事とは全く関係なく、体調や季節、気温、気圧の問題です。
実は私も、きなきなこさんと同じような状態になる時期が定期的に訪れます。何ら心配事があるわけでもないのに、朝起きた瞬間から絶望的な気分になっていて、活動のスイッチが入るまでにやたら時間がかかってしまう。悪いときには全くスイッチが入らない。そういうことがあるんです。気分ってかなり体調に左右されるので、対人関係や仕事などに思い当たる理由がない以上、これは体調によるものかもと判断し、こういう時期にはいつもよりも少しだけ体に気を遣います。暖かいお風呂にゆっくり浸かったり、ストレッチで体をほぐしてみたり、食べるものを変えてみたり。また体をリラックスさせるために、寝る前にはスマホと考え事をやめて、ベッドの中で嘘みたいな妄想をしたりもします。嘘みたいな妄想というのは、地面からビューンとドクター中松のジャンピングシューズで飛び上がって、雲の上でフワフワ歩くという、恥ずかしい妄想です。でも、頭の中でビューンとか、フワフワって感覚をイメージすると、肩のあたりの緊張がふいに解れるような気がするんですよ。
それから私は、年齢とともに季節や気温や気圧の影響も受けやすくなってきており、曇りの日には気分がどんよりするし、暖かいと比較的元気な日が多いです。そんな感じで不調というのはいつも、こちらの気持ちにはおかまいなしに突然前触れもなくやってきて、こちらが四苦八苦している間にいつの間にか過ぎ去っていきます。残念ながら、これといって有効な対抗策は未だ見出せていないわけですが、そもそも私はロボットでなく人間なので、いつも同じ調子でいられなくて当然。自分にはこういうことが起きるのだ、そしていつか必ずこの時期は終わるのだ、とそういうふうに思えるようになってからは、不調の時期にも少しだけマシな心持ちで過ごせるようになりました。ですから、もしよければ、体調や環境の中に思い当たるものがないか、少し考えてみてください。
一方、ふたつ目の可能性というのは、こちらはきなきなこさんも書いてくださっているとおり、お仕事と関係するところです。きなきなこさんの本来の欲望が、現在のお仕事とは別の場所にあるということはないでしょうか?
なんでもきなきなこさんは現在とても良い環境でお仕事されているとのこと。手がけておられるサービスも、社会的な価値が高いものなんですね。ただ、ソーシャルグッドなことと、個としての自分が欲することというのは必ずしも同じとは限らないため、ご自身でさえ無自覚なうちに、その辺りのズレに疲弊してしまっている、ということはないでしょうか。
これは限られた情報から想起されたことを勝手に綴っているだけなので、もし全然違うと感じたらどうぞさっぱりと無視してくださいね。26歳のきなきなこさんは、生まれたときからインターネットが当たり前にあった、いわゆるデジタルネイティブ世代ですよね。当然、コミュニケーションツールとしてSNSがずっと身近にあったのではないかと思います。自分の私生活も、誰かの私生活も。自分の意見も、誰かの意見も、ひとつの小さな画面の中に並列に並ぶ世界で多感な時期を過ごしてこられたのではないでしょうか。こういう状況では、ともすれば自分の声と他人の声が、簡単に混ざってしまうのではないかと私は思うのです。
私はこれまでに二人子供を産み、同じ環境で、同じように育ててきたつもりでした。ところが物心つき始めた頃から、二人が強く興味を引かれるものは不思議と同じではありませんでした。育つにつれ、どんどんそれぞれの好みや性格がはっきりとしてきました。人間というのはやっぱり、他人とは決して同じではないものを持って生まれてくるんだなあと思いました。
学校や会社に所属すると私たちは否が応でも他人と並列に並べられてしまうものですが、昔はその行き帰りの道や、家に帰ってしまえば、たった一人の私になることができました。だけど今はそうじゃないんですよね。行き帰りの道にも、家の中にも、スマホを通じてたくさんの他人がいる。たくさんの他人というのは、人恋しいときや他愛もないことを言ってるときにはろくにかまってくれないくせに、一度間違ったことを言おうものならしっかり証拠を取った上で集中砲火してくるわけです。そういう中で生きることが当たり前になってしまうと、人と違う本来の自分を大切に持っておくことは大変なリスクになってしまいます。環境に最適化する上で、外には出せない、自分だけの内なる声というのは、どんどん小さくなっていってしまいます。
それでいて、決して消えてしまうわけではないとも思います。言葉も喋れない赤ん坊だって、ロックを聞いてすやすや眠る子もいれば、クラシックを好む子もいる。生まれながらに持っているから、小さくなることはあっても、すっかり跡形もなく消えてしまうこともない。
だからこそ、誰かの役に立つこと、大きな声の支持を得られるようなことを手がけるときには、手放しに「良い」とする大勢の声とは別に、自分がもともと持っていた欲望、自分の内なる声が何と言っているかを、たしかに自分で握っておく必要があると思います。大勢の声がそのまま自分の声だと思って生きていると、本当はそんなにすっかり見事にフィットするはずがない、自分自身のはみ出している部分が、いつか悲鳴を上げるのではないかと思うんです。自分は自分のために生きているのであって、大勢の他人のために生きているわけではない、フィットしてない、気づいてくれ!とアピールしてくると思うんです。
そんなわけで、恵まれた職場環境や素晴らしいサービスが、本当に“ご自分にとって”恵まれたものなのか、素晴らしいものなのかということを、改めて自分に問い直してみてはいかがでしょうか。
といってもどうやれば、と戸惑いますよね。おそらくそのヒントは、きなきなこさんの子供時代に眠っていると思います。幼稚園や小学生、中学生の頃、どんなお子さんでしたか? どんなことに悩んでいましたか? 私たちがすっかり社会性を身につけてしまう前に苦悩した経験、思い出すと顔から火が出るような黒歴史に、もともと自分が持っていた気質や欲望の原石が隠れているかもしれません。少しずつ思い出してきたらぜひ、子供時代のご自身に、想像の世界で「今こんな仕事してるんだけど、どう思う?」と聞いてみるといいと思います。案外、思いもよらなかった答えを返してくれるかもしれませんよ。