やきものを訪ねて茨城県の笠間へ、画家の牧野伊三夫さんが絵付けに挑戦。
画家の牧野伊三夫さんがこの地で絵付けに挑戦します。
撮影・青木和義 構成&文・堀越和幸
画家の牧野伊三夫さんはこれまでにも何度か焼き物の絵付けをしたことがある。石川の九谷焼、島根の湯町窯、佐賀の唐津焼……。
「絵付けをする時には、なるべく早くしようと心がけているんですよ」
どういうことか?
「一点にかける時間が長くなると、労働時間も長くなる。すると焼き物はどうしても値段が高くなるんです」
笠間に向かう電車の中でそんなことを語り始めた牧野さんの考えの基本には“民藝”という発想がある。民藝とは大正時代の作陶家、柳宗悦、濱田庄司らによって提唱された文化運動で、無名の職人の手による生活雑貨の美を讃える考え方だ。
「意匠を凝らした芸術品のような器も悪くない。けれども僕は、生活の中で普通に使う器の中にこそ美しさがある、という彼らの言葉が好きなんです」
都心から電車で2時間弱。
この日、牧野さんが訪れた〈製陶ふくだ〉は、江戸は寛政8年(1796年)から続く、笠間焼の窯元だ。
●製陶ふくだ
周囲は田畑に囲まれて、生い茂った雑木林は蝉の声に占拠され、時折の風が夏のウグイスの囀りを運んでくる。
店主の福田勝之さんは当家の6代目にあたる。笠間焼とはどんな焼き物なのか? ということをまず尋ねてみると、福田さんはあっさりこう答えた。
「いわゆる生活陶器ですよね」
その歴史は250年ほど遡ることになる。時は江戸時代中期。当時の江戸では備前焼(岡山)が席巻していた。西からやってくる北前船が大量の備前焼を積んできたからである。そして、その頃、寺の縁を頼って西から笠間に流れ着いた信楽焼(滋賀)の職人が、この地の土質に注目をする。
「笠間の土は御影石が風化したもので鉄分が多い。これが焼き物に向いていました。しかも、細かい、粗い、火に強いなど、土に多様性があって、先代はよく“笠間のいろんな土を混ぜると焼き物が強くなる”と言っていました」
信楽焼職人の指導によって興った笠間焼は評判となり、しかも江戸に近いという地の利も手伝い安く卸すことができたので、それまで江戸で幅を利かせていた備前焼をたちまち追い出す格好となった。ちなみに冒頭の写真で牧野さんが前に立つ巨大な陶器は、先代が笠間焼の技術でどれだけ強くて大きなものが作れるかを試した花瓶で、その高さは実に6.4mもあるという。
スッと引いた邪念のない線、それが一番美しい。
庶民の生活に寄り添い、長きにわたって甕(かめ)やすり鉢を作り続けてきた〈製陶ふくだ〉。そこで働く代々の職人たちにはどんな意思が受け継がれてきたのだろうか? メモをとりながら牧野さんがそのことを尋ねると、
「父には人の役に立つものを考えろ。人に喜んでもらえ、とそれを一番言われました」と福田さんは答えた。
職人は日々同じものを作るので、ああしてやろう、こうしてやろう、という邪念がない。それだからこそーー。
「たとえば職人がろくろで引く“返し”と呼ばれる、器の内側のせり上がった部分の線は実にきれいです。結果、それが使いやすい。策を弄するのではなく、素直にスッと引いた線が一番美しい、とも先代はよく言っていました」
同じものを量を作る。けれどもそれは機械によらない手仕事だ。これは牧野さんが道中で語っていた民藝の様式美に通じるものだろう。
さて用意された素焼きの皿を前にいよいよ絵付けをする牧野さんだが、キャンバスに筆を置くのと器とでは少々勝手が違うらしい。
「器には個性がありますから。形も寸法も厚みもみんなそれぞれなので。画を描くというよりは、これをどう仕上げると面白くなるか。そういうデザイン的な発想で考えます」
方向性が見えていざ描き始める。すると、やがて心の高まりが出てくる。筆の勢い、濃淡、太さ、ちょっとしたことで趣を変える描線。その心の高まりの先にあるのは、牧野さん曰くの“作為から逃れる”という境地だ。
「予定調和からいかに逃げるかということはけっこう大切だと思っていて、そうするために僕は、絵画ならあえて目をつぶって描いたり、左手で描いたりすることもあるくらいで」
計算をすれば形になってあらわれる。それでは興醒めだ。それにーー、と牧野さんは付け加える。
「窯の中は何が起きるかわからないんですよ。絵が変わる。それが面白くて僕は絵付けをやっているくらいで」
釉薬の種類や素焼きの器の状態、さらには窯の環境、もっと言うならその日の天候にさえ左右されるかもしれない、コントロール不能の火の世界。
「むしろ余計なことを考えなくていい。窯に閉じ込められたら、自分の絵は焼かれるんですから(笑)」
そしていよいよ絵付けをした皿は窯の中へ。
車中で語っていたとおりに、いざ絵付けの作業が始まると牧野さんの筆の運びは淀むことがない。白い素焼きの肌に同じ軌道を描く筆が同じ色の絵の具を次々に染み込ませていく。けれどもどれひとつとして同じ描線にはならない。真剣な眼差しで器に集中する牧野さんの傍で話をするものは誰もいない。にわかにアトリエとなった東家の空気を震わせるのは、蝉の声、そして牧野さんの手元を狙う取材カメラのシャッター音ばかりだ。
そして1時間半が経過した頃に、牧野さんは「よし」と呟いた。
目の前には、絵付けがなされたばかりの大中小の皿がズラリと並んでいる。これらが窯に向かうのだ。火の世界をくぐり抜ければ、いったいどんな表情に生まれ変わるのか?
牧野さんが言う。
「焼き物はどこで完成するかと言えば、僕は食べ物を載せた段階だと思っているんです。5寸皿ならほうれん草のおひたし? 3寸皿なら明太子? 何でもいい。いただく料理を載せて皿の絵が出来上がる、非常に楽しみだ」
焼きには3日を要する絵付けの皿を主人の福田さんに託して、この日、牧野さんは笠間を後にした。
「製陶ふくだ」での絵付け 絵と文・牧野伊三夫
常磐線の友部駅から車を走らせていると、国道沿いに窯元や陶器の直売所が、ぽつりぽつりとある。その国道から、やっと車一台が通れるほどの細い道へそれ、小山の坂をのぼっていくと、〈製陶ふくだ〉に到着する。
樹齢百年はゆうに越えているだろうと思われる大木に囲まれて、いかにも焼き物の窯らしい瓦屋根の古風な木造の家が建っている。車から降りたら、夏の日差しがまぶしかった。
登り窯のそばで、手を動かしている陶工たちの姿を眺めて蝉の声をきいていると、この窯の六代目の当主である、福田勝之さんがやってきた。
僕は、ここで皿に絵付けをさせてもらうことになっていて、少し緊張していたのだが、その人なつこい笑顔にほっとして挨拶をした。そして、まずは工房の傍にある展示室で、この窯でつくられた器を見せていただく。どんなふうに絵付けができるのか知りたかったのだ。
展示室には、笠間で出土した縄文や弥生時代の大昔の土器のレプリカから、時代ごとに現代までの器が陳列されていた。ふくだでは、地元笠間でとれる、いくつかのタイプの違う土を混ぜ合わせて素地をつくり、近年では遠く、信楽からとりよせた土なども混ぜるのだと勝之さんが話されていた。どれも実用を重んじる生活陶器で、素朴な魅力がある。
絵付けをした器がない様子なので、勝之さんにたずねてみると、この窯では、仕事で絵付けをすることはないとのこと。工房の傍で行なわれる絵付け教室は先代のお父様が六十年前に行うようになり、それを勝之さんが引き継いで今も続いているのだという。
絵付け教室の生徒になった気分で案内された部屋へ行くと、あらかじめたのんでいた素焼きの器が大小三十枚ばかり用意されていた。絵具の色は十二色もある。呉須だけで藍染のような絵を描こうと思っていた僕は欲がでてきて、しばし窓から外の景色を眺めて、画想を練りなおすことになる。
そして、このあいだ泳ぎにいったばかりの海辺の景色を、鮮やかな青や緑の絵具で描いてみることにした。
『クロワッサン』1101号より