『空想の海』著者、深緑野分さんインタビュー。「全ての小説は謎の要素があると思っている」
撮影・鈴木慶子 文・中條裕子
「全ての小説は謎の要素があると思っている」
読み始めは一見何の変哲もない日常に見える話もあれば、ここは一体どんな場所なんだろう?と、のっけから戸惑いつつ入る話も。
一編ごとにまるで異なる趣、それでいてどれにも、小さな、大きな、無数の謎が転がる世界に飛び込んでいく楽しさ。物語は長さではなく、世界のほんの一面、ひとときを切り取って、色や手触り、匂いごと伝えられると、頭の中でそこに行けるーーそんな力を秘めているのだと実感できる短編集だ。
「短編は書きすぎないほうがおもしろいな、と。時に読者がモヤモヤした気持ちになる場合もあると思うけど、私はそのモヤモヤも大事にしてほしいと思う。説明し切らない、不親切なくらいがいいのかなと思っています。宙ぶらりんの気持ちのまま終わっている短編のほうが、個人的に好きなので」と、深緑野分さん。
言葉のとおり、どの物語も説明し尽くされぬままに終わりを迎えて、あとに不思議な読み心地が残る。
中には、最終戦争のあとに荒廃した、ディストピアのような世界も多く描かれるが、そこに登場する人物たちは実に多様な姿をしているのもまた印象深い。国だけでなく星すら超えて、それでも悲しみ、切なさ、恐怖や小さな喜びを、そこにいる人物たちと共に感じるのだ。それは、自身が生来、多様性が好きだからかもしれない、と深緑さんは笑う。
「物心ついた時から、いろんな人がいるのが好き。意識してなくても登場人物がさまざまな属性、立場の人だったりするのが、私にとって普通のことだったりするんですよね。生き物もあらゆるものが存在していて、理想を言えばみんなが幸福だといいなと思っているけど、それが崩れることがあるから滅びの話を書いたりするのかな、と。希望と絶望が両方あるみたいな感じですかね。それでもみんながいるほうがいいと思っています」
当たり前にそこにいる異形ともわかり合いたいという願望が。
ある物語に出てくるのは、神を自称する得体の知れないモノ。本をただひたすら愛する主人公のたまきが、私営の図書館から盗まれた多くの本を探して回るうち、神社に巣食うモノと対峙するのだが、その会話がまた秀逸。本とは何かと尋ねるモノに、たまきは物語を語り聞かせるが、その終わりが中途半端だと言ってモノは怒り狂う。その姿はかわいくすらある。
「妖怪もまた人並みに、隣にいる感じなんです。それがいるのが幸せ、『となりのトトロ』のような。当たり前にそこにいる異形とも、やっぱりどこかでわかり合いたいという願望があるんですよね」
みんな違うけど、どこかではわかり合える、どこかでは繋がっている、という気持ちがその根底にはあるのだと語る。ごく当たり前の隣人も、ヒトではないモノも、ここではない別の惑星人も。
多様な存在が紡ぎ出す物語は、一編ずつ読み進むうちに異なる表情を見せてくる。まるで覗くたびキラキラと形を変える、万華鏡のような一冊となっている。
『クロワッサン』1100号より