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ノンフィクション作家の梯久美子さん。「50代で自分なりの課題が見えてきた」

ノンフィクション作家として力作を発表し続ける梯久美子さん。その真摯な眼差しの背景にあるものは。
  • 撮影・青木和義

44歳のとき『散るぞ悲しき―硫黄島総指揮官・栗林忠道』を上梓してノンフィクション作家になった梯久美子さんは、56歳になる今年『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ』で読売文学賞と芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。しかし、文筆で生きていこうと決意したのは遅く、39歳のときだ。

「そんなに簡単に書く人になれるはずがない、って。詩とか小説とか、創作をしないと文筆では生きられないと考えていたんですよ。本の世界に強い憧れがあったので、できれば編集者になりたいと思ってました」

北海道大学文学部を卒業後、上京して出版部門のある上場企業の社長秘書になった。1年後、念願かなって学生時代に愛読していた『詩とメルヘン』の編集部に異動したのだが、1年で辞めてしまった。

「嫌な部長がいまして(笑)、ある日つまらないことで部長席に呼ばれて叱られたんですね。立ったまま叱責されているうちに、なぜか体が勝手に動いて、踵を返して自分の席に戻ってきちゃったんですよ。部長も唖然としてましたけど、そのとき周囲の世界が遠く見えて〝ああ、もうこの会社辞めよう〟と思いました」

24歳で退職。1986年のことである。退職金はわずか。貯金もなく、親戚もおらず、東京で一人暮らし。

「大学時代の親友が結婚して東京に出てきていたので、相談したんです。“じゃあ二人で今日から編集プロダクションやろうよ”と、学生ノリみたいな感じで、とりあえず名刺だけ作りました。文字を書いてお金がもらえる仕事なら、何でもやりましたよ。何も持たずに会社員の生活を手放したことがよかったんだと後から気づきました」

実力をつけてから独立しようとする人は多いが、ある程度キャリアのある人には小さい仕事を頼みにくいもの。しかし梯さんたちには、実力もキャリアもないことの強みがあった。

「小さい仕事をもらって、真面目に一生懸命やると、だんだん仕事が増えていくんですね。無我夢中で雑誌のコラムやチラシのキャッチコピー、ラジオの構成原稿から広告代理店のイベントの企画書まで、あらゆるものを書きました。そのうちインタビューの仕事も声がかかるようになって」

編集者時代に薫陶を受けたやなせたかしさんと軽井沢のホームズ像の前で。

バブルが崩壊してからも順調だった。社員を雇い、業務を拡大した。メイクやダイエット、インテリアといった女性誌の実用記事を編集したり、銀行のPR誌を作ったり。ハリウッド映画の宣伝物も作るようになったし、ムックを丸ごと1冊請け負ったりもした。

「20代、30代、とにかく夢中で仕事をしましたね。そのうちに自分はインタビューが得意だなと気づいて、芸能人から政治家まで幅広くやりましたが、39歳のときに〝これでいいのかな?〟という気持ちになったんです。だんだん経営というか、部下に仕事を振ったり、その進行管理や、お金の出入りに責任を持つような仕事ばかりになってきて。これを例えば60歳まで続けるより、人に取材してわかりやすく文章で伝える仕事がしたいと思うようになりました。共同経営者に相談して、会社が順調だからこそ辞められた。新しい道に踏み出すにはまず、持っているものを捨てるのが大事だと、そのときも実感しました」

フリーランスになったのは2001年、40歳になる年である。このとき、まだノンフィクション作家になろうという発想はなかった。

「本を出そうという考えはなかったですね。雑誌の取材で同時代を生きている女性たちのルポを書くのが面白かった。離婚して働いて子どもを育てている女性、管理職になって男の部下を持っている女性、国際結婚した女性……普通の人の話を紹介する役割もものを書く人間にはあると思って、しかもそれで食べていけるじゃないかと(笑)」

そんな梯さんに一大転機が訪れたのは2003年のことである。

まったく関心のなかった、戦争ものがライフワークに。

雑誌『オブラ』の取材で孤高の作家、丸山健二さんのインタビュー記事を書いたところ、文章をほめられ、その後、雑誌『アエラ』の「現代の肖像」に登場してもらうことになった。すると、何度目かの取材のとき丸山さんが、

「俺は女の人に年齢を聞く趣味はないんだが、あんたいくつだ?」

「42です」と梯さんが答えると、

「うかうかしてる齢じゃねえな。結婚する気あるのか?」

「たぶんないと思います」

正直に答えると、小説を書く気があるかどうか尋ねられた。ないと答えた。

「そうか。せっかく文がうまいのに、40過ぎて1冊も著書がないのはあんまりいいことじゃないな……硫黄島の栗林中将って知ってるか?」

「いま初めて聞きました。知りません」

また正直に答えると、丸山さんが、

「日本の軍人には珍しく合理的で、家族思いの人だよ。梯さんみたいな人が書いたら面白いんじゃないかな」

と勧めてくれた。当時、硫黄島関連で手に入った本が3冊のみ。だが読むと興味が出てきた。不思議な縁があった。

「知り合いの編集者に話したら、たまたまその本の担当と仲がよくて、幸運にも話を聞くことができました。そうしたら、栗林中将が硫黄島から出した手紙がご遺族のところにたくさんあるとわかったんです」

――國の為重き努を果し得で矢彈盡き

果て散るぞ悲しき

辞世の歌の末尾が、軍部によって、

――散るぞ口惜し

に改ざんされている電報もあった。それらの手紙や電報を元に『散るぞ悲しき』を書いて’05年に上梓した。翌年、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。

「それまで仕事というのは自分の力でやるものだと思っていたんです。でもこの本は、人の勧めで始まって次から次へ人の縁がつながって大きな仕事になった。もともと戦争ものに全然関心がなくて、女性ものが中心だったのに、この本を書いてからは戦争と死に向き合う10年間でした」

戦争を扱う著書を出してきた。『昭和二十年夏、僕は兵士だった』『昭和の遺書―55人の魂の記録』『昭和二十年夏、女たちの戦争』『昭和二十年夏、子供たちが見た戦争』など数多く。

「また“これでいいのかな?”と疑問を感じるようになるんですね。そんな中で大きな刺激を受けたのが、広島の原爆で命を落とした女性たちの遺品を撮影した、石内都さんの写真です。1点、仕事部屋に飾っているんですが、すごく美しく撮ってある。私は石内さんの写真を見て、自分がそれまで戦争の遺品を資料として見ていたことに気づかされたんですよね。私の書くものはよく〝女性ならでは〟といわれるんですが、それでもどこか男性の視点を内面化して書いているところがある。〝戦争とはこう書くもの〟という通念に縛られているというか……石内さんは、遺品を明るい光の中で美しく撮ることで、それを着ていた女の子が生きていたときの姿をもういちど蘇らせようとしていると感じました」

それこそ女性にしかできないことだ。ノンフィクション作品にも女性の視点を生かすことが、もっとできるはずだと梯さんは考えた。

「島尾ミホさんのことを書いた『狂うひと』も、戦争で大きく人生を左右された女性の話ですが、従来の戦争ものとは違う視点で書こうと思った。名作『死の棘』のモデルとして、ある種、神話化されてきたミホさんですが、事実を積み重ねて検証することで生身の女の姿が見えてくる。巫女でもなければ島の女でもない、女として魅力的なミホさんを書いたんです。初めて、女の目でものが書けました」

『狂うひと』は着手から完成まで11年をかけた大作。取材時の克明なメモやテープ、写真など。
原爆で命を落とした女性の遺品を石内都さんが撮影した写真。仕事部屋に掛けている。

『クロワッサン』948号より

梯久美子さん 作家/1961年、熊本県生まれ。北海道大学を卒業後、上京して編集者に。2006年『散るぞ悲しき』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。

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