くらし

ある居酒屋での話。│束芋「絵に描いた牡丹餅に触りたい」

ある日、居酒屋での話。

私はお酒を飲まないけれど、美味しい料理を出してくれる居酒屋が大好きだ。そこの居酒屋は大将のキャラクターも相まって、個室よりも先にカウンター席が予約で埋まる。私達も仲のいい友人達と、美味しい料理と大将のお喋りを楽しむため、結構な大人数でカウンター席を予約して店に入った。

ひとしきり食べてお腹も落ち着いた頃、2人のお客さんがお会計をして帰られたので、人気のカウンター席が2人分空いた。そして間も無く1組のカップルが入ってくる。珍しく予約してないお客さんのようだけど、たまたま空いた席があったので、そこにすんなり座るかと思いきや、大将が男性客に気づき「ご無沙汰してます! お久しぶりですねー」と威勢よく挨拶する。その瞬間、たぶん秒数にすれば2、3秒というところだったのだろうけれど、男性が言葉に詰まった。「来たことないですよ」。絶句のあとのその一言。カウンター席に座っていた全員が、「あ、この人今、嘘をついた」と思った。カウンター客全員がそう思ったのだから、その男性の隣にいる女性がそう思わないわけがない。賑やかだったカウンター席は凍りつき、そこにいる全員がことの成り行きに、耳をそばだてた。カップルは一旦は席についたのだけれど、女性は一言も発しない。男性は「気分が悪いわ、もういいわ」と吐き捨てて、女性を引き連れて出て行くという顛末。

気の毒な大将をおもんばかって、店ではみんな堪えていたが、店を出た途端、男性の悪事を想像し、様々な妄想で盛り上がる。大将の何気ない挨拶によって、引き出された男性の一言、たった数秒間のやり取りが、男性の性格や過去、連れの女性との関係を物語る。もちろんその想像が真実であるとはかぎらないけれど、数秒間の言葉がこれだけの想像を生む面白さを体験させてもらった。あのとき隣にいた女性は、今もあの男性と一緒にいるのだろうか。

束芋(たばいも)●現代美術家。6月23日まで横浜美術館の展覧会『Meet the Collection』に参加。

『クロワッサン』998号より

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