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津村記久子さん特別エッセイ「何歳やと思ってんのよ? の救済」

何歳(いくつ)やと思ってんのよ? の救済

文・津村記久子

今年の一月で四十六歳になったのですが、今まで以上に体力が低下し、今までできていたこともおっくうになって、忙しさは今までと同じぐらいなのに、どうしてこんなにしんどいんだろう、と体重計に乗ったところ、すごく太ってました。すごくです。こんなに体が重くなったんならそりゃしんどいだろう、と納得しました。

これまでも充分に余裕のあるサイズを買っていたパンツが苦しくなりました。それで、男の人が穿いている七分丈のカーゴパンツのLサイズが入ってほっとする始末です。自分より十センチとか、もっと背の高い人が穿くやつです。
購入したパンツは涼しくてとてもいいですし、メンズのサイズでどう注文したら自分に合う商品なのかがわかったこともよかったのですが、それでも「太ったなあ」という一抹の悲しみはつきまといます。メンズのLが自分のサイズだとわかって喜んでる場合か、と思う人はいるかもしれません。

部屋はますます散らかってきたような気がします。仕事は、いろいろな方の尽力のおかげでなんとかこなせているけれども、それ以外はぼろぼろな様子です。
暑くなってから、再利用のペットボトルにお茶をたくさん冷やしているため、冷蔵庫の整理が難しくなってきて、開けるたびにパズルゲームをやっているような気がします。
結果的に後悔するような人間関係に巻き込まれ、あまりの悔しさに自分自身の歯ぎしりで起きることもあります。
それで奥歯が痛くなりました。でも歯ぎしりで傷んでいるだけのはず、と一縷の望みを賭けていた歯は、詰め物の下で虫歯になっていました。抜髄処置となりました。これでまた、神経のある歯を一本失いました。

四月に仕事先で撮ってもらった写真を確認すると、顔のシミが目立っていました。四十歳を過ぎてからシミが出てくるようになりましたが、今年撮ってもらった写真はこれまででいちばん目立ちました。小さなポートレートでもわかるぐらいです。パウダーをはたいていても、シミがあるとわかります。

シミか、と思いました。でも自分自身はなんだか楽しそうに笑っている写真だったので、それでいいです、それを使ってください、と申し送りました。「この人シミ目立つなあ」と思われるかもしれませんが、本当のことだから仕方がないです。でも「シミ気になるよね!」とわざわざ言ってくる人や言っている人は気にしないでおこう、とも思います。わたしにシミがあることはもう仕方がないことなのです。十代の時に日焼け止めを塗っていなかったとか、塗っていても充分じゃなかったとか、いろいろ理由があるのでしょう。

同い年の友人たちと大阪の難波というところに食事に行って、いろいろ話した後、自分が住んでいた頃と様変わりしたある商業ビルをうろうろして、基礎化粧品がたくさん並べられている店に行きました。
「これを使ってみれば?」と適当にお互いに押しつけ合う中、ある友人が、シミが消えるという美容液に強い興味を示していました。わたしは、自分の写真の話をしたと思います。友人はそれを聞いた後、「そらシミぐらいあるわよ。何歳やと思ってんのよ」と言いました。

本当にそうだと思いました。もうシミが目立って当たり前の年だし、隠せないほど疲れていて当たり前の年なのです。そんなことに関してとやかく思うのはまだしも、言われる筋合いはないと思いました。

このことだけにとどまらず「何歳やと思ってんのよ」というのは強い言葉です。いざという時のために持っておいて損はない言葉だと思います。おまえはあれが足りない、これが足りない、と自分自身の経済活動やプライドの維持のためにしつこく言ってくる広告や知人やアカウントにぶつかった場合、とにかく内心でこう思えばその負を押しつけてくる力から離れられるはずです。何歳やと思ってんのよ、あるもんは仕方ないしないもんも仕方ないのよ。

もはや疲れたり腹を立てたりすることのほうが多いですが、諦めるのもうまくなってきたように思います。
わたし自身は、寝ながら怒って歯ぎしりをしているぐらいなので、まだまだそうとは言えないのですが、怒る気力もわかないから、だんだん穏やかになってきた、という同年代の人もいます。
わたしも、歯ぎしりはしていますが、仕事や人間関係や趣味に対して、「このぐらいやれたらいい」と自分なりのゆるい境界線を設けられるようになりました。怒りも他のことも、深追いしなくなったのです。

もう年だから、付き合いでやっているような日常のあれこれや、惰性で参加しているようなイベントごとにかけられるエネルギーは限られてきます。焦りはあっても体がついていかないのです。その状況を繰り返しているうちに、次第に焦りが消えていきます。自分はもう年だから、そういうことには加わらない、元気のある人たちでやってください、と諦められるようになっているわけです。

一人暮らしになってから怒る回数が減ったのにも少し似ていると思います。遠くで起こっている本当に怒りを感じること、すぐには手の届かない整理をつけられないことへのふつふつした怒りはずっとありますが、単純で瞬発的な対人の怒りは強制終了した感があります。このことは、結果的に自分をとても楽にしました。

年をとってから、悪い予感はだいたい当たるという意味での勘は良くなってきましたし、テレビやSNSでばらまかれる訴求を目にしても、無理して手に入れる物や体験じゃないと仕分けられるようになりました。自分の周りで大切にしたほうがよいものもちゃんと見えてくるようになりました。
太って、シミが出てきて、疲れ果てていても、それでも日々の学びはわずかずつですが確実に蓄積しています。それが若さとは取り替えがたいほど価値があるものかどうかは人によるでしょうが、覚えていられる限りは、さまざまな細かな場面で人生を助けてくれるものなのではないか、とわたしは信じています。

津村記久子さん特別エッセイ「何歳やと思ってんのよ? の救済」
  • 津村記久子 さん (つむら・きくこ)

    1978年、大阪府生まれ。2009年『ポトスライムの舟』で芥川賞受賞。’23年『水車小屋のネネ』で谷崎潤一郎賞受賞。著書多数。

『クロワッサン』1123号より

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