『タスキ彼方』著者、額賀 澪さんインタビュー。「節目に、感動の陰にいる人たちを書きたかった」
撮影・黒石あみ(小学館) 文・合川翔子(編集部)
「節目に、感動の陰にいる人たちを書きたかった」
「駅伝は、陸上の一種にすぎないのですが、タスキを運ぶというドラマを背負っていて。書く人間としてその物語性に惹かれました」
駅伝をテーマに多くの作品を手がける額賀澪さんは言う。
「リレーのバトンは、予選と決勝で違うものを使うこともよくありますが、タスキの扱いは独特。その一本に思いを託し、繋いでいく。自分一人では行けない場所に、仲間と一緒に行く。スポーツの領域から逸脱した存在なんですよね」
第100回箱根駅伝の開催にあわせて生まれた『タスキ彼方』。日東大学新米駅伝監督の成竹は、陸上部に所属する男子マラソン日本人学生歴代1位の記録をもつ神原に同行し、ボストンマラソンの会場を訪れる。そこで、とある選手から古びた日記を譲り受ける。それは戦時下の箱根駅伝開催に尽力し、出征したある大学生の回顧録だった。現代と戦時下が交錯し、駅伝を取り巻く人々の奮闘が描かれる。
「戦時中、箱根駅伝は中止を余儀なくされます。でも諦めたわけじゃない。その時期に開催された“幻の箱根駅伝”といわれる第22回大会があり、その前に100回にカウントさえされていない“青梅駅伝”があるんです。毎年感動をお茶の間に届けてくれる箱根駅伝の陰にいる人たちのことを、この節目の時期に書きたいと思いました」
軍事物資運搬のために国道が使えず、コースを変えて開かれた“青梅駅伝”。戦勝祈願という名目で、靖国神社をスタートすることで開催にこぎ着けた第22回大会。学生たちは出征前になんとしてでも駅伝を走りたいと画策し、奔走する。
「戦時下、駅伝は贅沢なものとされましたが、スポーツって危うい存在だなと。いいときは健やかなものとして称えられ、持ち上げられるけど、有事のときは真っ先に悪者扱いされる。コロナ禍のスポーツもそう。嫌な同調圧力みたいなものが今に通ずると思いました」
80年前の宿題の答えを示していく。
箱根の1区を走り、そのまま汽車に乗って出征した久連松。青梅駅伝を2回走り、箱根を走れないまま戦地に赴いた新倉。作中の人物は実在した人をもとに描かれる。
「変な脚色はしないで、事実はなるべく事実のまま書こうと。そして、駅伝を走れてめでたしではなく、戦時下の箱根駅伝は、学生を悔いなく戦地に送り出すイベントとして発射台のように戦争に加担している部分がある。それが何を生んだのか、80年前の宿題の答えを少しでも示したいと思いました」
選手がヒーローのようにもてはやされ、チームや絆を声高に謳う箱根駅伝を神原は疎み、監督からの箱根駅伝出場の誘いを断り続ける。
「宿題に対するひとつの答えが神原だったと思っていて。箱根駅伝を嫌いでいい。当時は箱根駅伝を走って死ぬしかなかったけれど、今は大量に選択肢がある。それはスポーツに限らず。80年かけて積み上げられた変化かなと思いますし、何年後かの答えというのをまた追っていきたいですね」
『クロワッサン』1112号より