【堀本裕樹さん×アーサー・ビナードさん 対談】俳句の聖地で交わされた濃密な会話とは。
撮影・天日恵美子 文・三浦天紗子
体験や実感から詠むと、標語俳句から抜け出せる。(堀本さん)
ビナード 日本語で書くときも、僕はしょっちゅうミシガンの森の記憶をアクセスしている。その川で泳ぎながら育ったから。
堀本 ビナードさんも虫好きですよね。詩にたくさん虫や自然が出てきます。体験が、ビナードさんなら詩に、僕なら俳句に、発想として生きてくる。
ビナード 表現のツールとして季語を使うというより、事物そのもの、現象そのものが季語だ、その発想ですね。ほかの俳人たちも共有してる?
堀本 どうでしょう。僕はそうやって小さい頃から自然に触れてきたので、都会生まれの俳人よりその思いが強いのかもしれない。生き物が絶滅しても俳句は作れるとはいえ、そんな悲しい世界はないですよ。
ビナード たとえば、山本健吉が編んだ「歳時記」を引いて、そこに載っている先人たちの句を入り口に、自分が直に出合ってない季語に出合うのももうひとつの方法かなと思う。実際、国によって、大陸によって、季語になりうる生き物は違うでしょう。英語などほかの言語で俳句を作っている人たちそれぞれに、それぞれが思い浮かべる「飛蝗」がいるはず。
堀本 そうですね。ニホンオオカミは絶滅しましたが、「狼」は冬の季語として今でも「歳時記」で生きている。
ビナード つまり「歳時記」はニホンオオカミの絶滅を信じていないわけだ。どこかで生きているかもしれないとあきらめていないってこと。
堀本 それこそもしもの世界(笑)。
ビナード いわゆる標語俳句から抜け出すには、どうしたらいい?
堀本 やはり自分の生活の実感から俳句を作っていくのがいいと思います。
ビナード 俳句は短いから、上っ面でパッとかっこよく詠めた感じにできる。だからこそ、疑り深くなることが大事ですよね。いま感じていることが本物なのか、その感動は実態とつながっているものなのか、突っ込んで考える。そんな基本姿勢で言葉と向き合うべきでしょうね。
堀本 句会などはまさに言葉と向き合う場です。作ってきた句にあれこれ評価がつく。でも、自分では意図していなかった見方を発見してくれるのも、句会なんですよね。俳句は省略の文芸なので、他者が読み取る部分がすごく大きい。思い思いの読みや解釈をしてくれる人がいて、「自分ではそんなことを考えてはいなかったけれどそうも読めるんだな」という発見がある。句会では最初、無記名で十七音だけに向き合って批評し合います。だからニュートラルで公平。本当に豊かなものが生まれることが多いです。
ビナード 「無礼講」に近いから楽しい。
堀本 ところで、虫好きの僕としては、いつかビナードさんに虫の詩だけで編んだ一冊をお願いしたいです。
ビナード わかりました。『もしも、詩があったら』の続篇として『虫も、詩があったら』を編んでみよう(笑)。
対談を終えて詠んだ、ふたりの句。
【 「十九号」を振られた嵐が接近する夜に 】
番号をふるのも不遜台風来る アーサー
【 蚯蚓(みみず)は鳴かぬゆえ、「蚯蚓鳴く」はifの季語なり 】
蚯蚓鳴く闇の染みゆく畳かな 裕樹
『クロワッサン』1010号より