「裏切られた」と感じたとき、実際に裏切りがあったかどうかは別の問題だ。
通常の生活において、信用してない人や気にかけてない人から裏切られるということはない。どんな悪意をむけられたとしても、元々信用してないのだからそれは想定内で、裏切りにはならない。
「裏切られた」と感じるのは、信用していた人に思いがけずショックを与えられたときで、これはかなりこたえる。愛情をかけていればいるほど、相手が自分の思い通りにならなかったとき、「裏切られた」と感じてしまう。
ということは、「裏切られた」と感じるということ自体、とても身勝手な話だ。勝手に信用し、愛情をかけ、「きっと私の思っているように行動してくれるだろう」と期待して、そのように行動しなければ「裏切られた」と感じてしまうのだ。相手は、こちらがそんなに自分を信用していることも愛情をかけていることも知らない。信用も愛情も客観的に物理的な量を測ることはできないし、それができたところで、愛情の量に見合うだけ、思いを汲んで行動するというものでもない。
「どうしてわかってくれないの?!」という勝手な言い分は、その怒りの分、相手にストレスをかける。信用し、愛情のある相手にストレスをかけるのは本意ではない。こうなってしまったら、やっぱりじっと我慢して、勝手に信用し続けるしかないのだろう。
こうやって文章にし、読み返すことで自分を納得させると、心にたまった黒いものがスッと抜けていく。だから「裏切られた」という思い込みによる哀しみや怒りは、結局、自分でしか処理できないものだということだ。