考察『光る君へ』16話 『枕草子』づくしの華やかな宮廷サロンの影、都には「疫神が通るぞ」…極楽に清少納言、地獄に紫式部
文・ぬえ イラスト・南天 編集・アライユキコ
なにを書き始めたの?
「『蜻蛉日記』の話のとき、私をのけものにしたでしょう!」
さわ(野村麻純)のこの憤りは、道綱(上地雄介)に人違いされた上に拒絶された八つ当たりではあるのだが、まひろ(吉高由里子)が土御門殿姫君サロンでも、自分の好きな作品語りを暴走させて周りを置いてけぼりにしがちだったことを思い出した。姫君サロンは倫子(黒木華)の制御が利いた場であり、まひろも上手く抑えられていたのだ。
「私は家ではどうでもいい子で、石山寺でもどうでもいい女だった」
「これ以上、私をみじめにさせないでください」
さわはあっけらかんとしているようで、自分は要らない存在なのではと悩んでいたのか……彼女の傷は深い。仲良しの友達との、せっかくの楽しいふたり旅だったのにねえ……さわもまひろも可哀想に。今回のことは、道綱が全部悪い。
「私は日記を書くことで、己の悲しみを救いました」
『蜻蛉日記』作者・藤原道綱母、寧子(財前直見)の言葉を思い出しながら墨をする、まひろ。なにを書き始めたの………? と身を乗り出したら、さわへの手紙だった。一瞬、紫式部日記!? 現存していない部分の? と思ってしまった。ああ、でも、さわが受け取っても受け取らなくても綴られるその手紙は、日記と同じく、書くことで己が癒されるものだ。
そしてこの手紙は、いずれ『紫式部集』に繋がってゆくのかもしれない。
『枕草子』づくし
中宮定子(高畑充希)のいる登華殿の場面は『枕草子』づくしだった。
伊周(三浦翔平)の装束は桜の直衣。当時細い絹糸で織りあげた着物は薄く、裏地が透けるために、貴族たちは表裏で違う色を重ねて調和を楽しんだ。桜とは、表は白・裏は赤、あるいは紫を重ねた衣服を指す。これは『枕草子』第二十段「大納言殿(伊周)、桜の直衣の少しなよらかなるに濃き紫の固紋の指貫、白き御衣ども、上には濃き綾のいとあざやかなるを出して参り給へり」。この一節を思い出す。
隆家(竜星涼)が、帝(塩野瑛久)の御前で緊張する行成(渡辺大知)を鼻で笑う。たった1秒で、彼は帝の御前で緊張する必要がないほど普段から接していること、そして鼻持ちならない驕りが感じられ、見事だった。竜星涼、うまいなあ。
行成が古今和歌集の写しを献上、斉信(金田哲)が越前の鏡を献上。
藤原行成の筆による古今和歌集の写本(曼珠院本)は現在国宝に指定され、京都国立博物館に寄託されている。
伊周が「斉信殿はおなごへの贈り物に慣れておられるのやも」と語りかけているのに、清少納言(ファーストサマーウイカ)が意味ありげに口角を上げるのも『枕草子』づくしのひとつかもしれない。
中宮定子が「少納言。香炉峰の雪はいかがであろうか」と声をかける。香炉峰の雪! まさにこれは平安文学ファンが待ち望んだ、名場面である。
「少納言よ。香炉峰いかならむ」と仰せらるれば、御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば、笑はせ給ふ。(『枕草子』第二百八十四段)
これは、中宮定子のサロンにおいて、定子と女房たちの、女性ばかりの席でのできごと。
白楽天(白居易)の漢詩『香炉峰下新卜山居(こうろほうかあらたにさんきょをぼくす)』の一節、
「遺愛寺の鐘は枕にそばだちて聴き 香炉峰の雪は簾を掲げて看る」
を踏まえて、中宮定子が清少納言に問いかけ、それを即座に理解し、応じたというものだ。
雪はどうであろうか、と問われたら「積もっております」「やんでおります」などと答えるかもしれない。しかし「香炉峰」と仰ったのだから、御簾を掲げて見せたのだ。
後宮での日々の中で、こうした教養と機知に富んだやり取りができて、中宮はさぞ楽しい時間を過ごしただろう。
さてドラマでは、ちらっと映った、豪華な青磁の壺に白梅の花を活けたものは、これも『枕草子』の第二十段「高欄のもとに、青き瓶の大きなるを据えて、桜のいみじうおもしろき枝の五尺ばかりなるを、いと多くさしたれば……」の一節を思い起こさせるし、ずらりと並んだ果物、お菓子。豪奢を極めた後宮の素晴らしさが描かれたが、第15話(記事はこちら)で道長(柄本佑)が関白・道隆(井浦新)に「公の財を以て、中宮さまとその女房たちの装束、きらびやかな調度をたびたび誂えるのはいかがなものか」と物申していたので、これらすべて、財政を圧迫してまで作られた室礼(しつらい)なのだと、心がすっと暗くなる。
桜の直衣の意味
登華殿でのお招きの後の、公任たちの打ち上げ。
帝の美しさにぽーっとなっている行成に、斉信の、
「おまえ、道長じゃなかったのか」
あ、やっぱり行成の恋心は道長にあったのね。そしてそれは仲間内では周知のことであったと。
同性愛が重く受け止められずからかわれもせず、仲間内でのサラッとした会話で示されたことに安堵した。
公任「帝の御前で伊周殿のあの直衣は許しがたい」
斉信「帝がお許しになっているのだからどうにもならぬが」
帝の御前なので、公達はみな束帯の完全フォーマルだった。伊周だけは桜の直衣。直衣は束帯よりも若干カジュアルである。
登華殿で伊周が「ここは政務の場ではございません」と述べ、おそらく招待の際も現代に例えれば「平服でお越しください」というやつだったのかもしれない。それでも中関白家の隆家は束帯だったのだから、公達がみな「そうは言っても、主上がおわすのだし」と、フォーマルで来ることを見越して、あえて伊周のみの直衣だろう。ナレーションのとおり「帝との親密さをことさらに見せつけ」る図である。『枕草子』第二十段の大納言殿の桜の直衣を、こう使うのか……なるほど、と思った。
同じ夜、登華殿の華やかな戯れを目にして帰宅した道長(柄本佑)と倫子夫婦。
「彰子を入内させるなんてお考えにならないでくださいね」
「このままでよい。このまま苦労なく育ってほしい」
両親の思いはこうなのに、なぜああなった……と頭を抱える。ところで、さりげなくだが嫡男・藤原頼通が生まれて道長に抱っこされている?10円硬貨の表面に彫られている、平等院鳳凰堂のあるじだ。
「まひろ」の名前を聞いて……
詮子(吉田羊)が一条帝を訪ねる場面は、最初から最後まで女院・詮子にとっては腹立たしさしかなかったろう。
隆家の「あ。誰か来た(見えてるんだから、女院様とわかってるのに『誰か』と表現)」に始まり、伊周のおわかりいただきたくお願い申し上げますと言葉は丁寧だが直訳すると「おばさん、古いんだよね。イマドキの後宮はこうなの」という説教といい。道綱ですら「肝が冷えたよ~!」となる不遜ぶりだった。
道隆、道兼、道長の三兄弟と違い、伊周と隆家兄弟の危うさは、ふたりともぶっちぎりに調子に乗ってブレーキをかける役がいないことだ。
ところで、このときの様子とともに石山寺でのできごとを道長に報告する道綱、「まひろ」の名前を聞いた瞬間の道長の顔を見たら、もう一度肝を冷やしたのではないか。一瞬すごい殺気でしたよ。
疫神が通るぞ
安倍晴明(ユースケ・サンタマリア)「門を閉めろ。誰も外に出てはならぬし、入れてもならぬ。今宵、疫神が通るぞ。疫病の神だ」
パンデミックを経験した私たちならわかる。晴明が言うこれは感染症対策だ。
『栄花物語』はこの正歴5年(994年)、
……春より煩ふ(わづらう)人多く、道、大路にもゆゆしき物ども多かり
(春から病気になる人が多く、道にも大路にも、遺体が数多く転がっている)
と記している。この時、多くの命を奪った疫病は疱瘡(天然痘)ではとされるが、ドラマ内では咳と発熱を伴う感染症として描かれる。新型コロナ禍を思わせる仕組みだ。
極楽と地獄のそれぞれに
両親が体調を崩し、悲田院に行ったまま帰ってこないと途方にくれた、たね(竹澤咲子)がまひろを訪ねてくる。
悲田院は奈良時代、大仏を造立した聖武天皇の皇后・光明子(こうみょうし)が皇太子妃時代に、貧しい人たちを救済する為に施薬院(せやくいん)と共に設立した福祉施設である。聖徳太子が設立した説があるが、記録として残っているのは光明子によるものが一番古く、その後平安時代にも受け継がれた。
しかし、この作品内では、悲田院に人が押し寄せても、役人のやることは遺体の運び出しのみのように見える。薬師(医療従事者)は忙殺され、あきらかに人手が足りていない。
医療が未発達のこの時代にできることは限られ、そして当時の考え方であれば道隆が比叡山に読経を命じることは、十分に政府としての役目を果たしている。
ただ現代人の目線では他になにかやれることがあるのでは……と言いたくなる。たねのように親が病に倒れた子らの面倒を見るとか。食料を配るとか。しかし人を集めればまた感染が拡がる……なんとももどかしい。
たねも両親の後を追うように事切れる。今際の際に呟くのは「あめ、つち……」。
まひろとの学びの時間はたねにとって、よほど忘れられない、幸せな時間だったのだろう。文字は彼女を、よりよき人生に導いてくれるはずだった。
前半で、中関白家の築いた美しい内裏の様子を見せてからの、この地獄のようなありさま。
ちなみに光明子は藤原不比等の娘、藤原氏から出た皇后第一号である。その光明子の設立した悲田院が、同じく藤原氏が掌握した、藤原氏の后を戴く世で放置状態なのは、意図した構図だろうか。
サブタイトルは「華の影」。定子のいる登華殿、中関白家の栄華の影に、民の苦しみがある。そしてその極楽と地獄のそれぞれにいる、平安文学の2大巨頭・清少納言と紫式部。
ドラマとして面白い。
道兼──!!
道隆が内裏で次々と水を飲み干している。第15話で「だるい」と言っていた、倦怠感。そして、今回は陽光を浴び、眩しそうにしていた。目のかすみ。激しい口渇。平安時代は「飲水の病」といわれた、糖尿病の症状ではないか……。
その道隆は、道長の進言を全く取り合わない。体調不良の苛立ちからか、弟に顎クイまでする始末である。
それにしても、傲慢な権力者を演じても品を失わない井浦新、すごいな。
関白に見切りをつけて都を視察し、できることを探そうとする道長に
「都の様子なら俺が見てくる。汚れ仕事は俺の役目だ」
み、道兼(玉置玲央)── !! 死の穢れに満ちた都、悲田院の様子を見に行くのは既に穢れた自分の役目だと……もう彼は、民を虫けら扱いする人間ではないのだ。
そして、まひろ以外は誰も知らないが、直秀の埋葬をして穢れは現実に影響しないと考えているらしい道長も、結局悲田院に来てしまった。
道兼「まぬけな奴だ」
第1話(記事はこちら)の「まぬけめ!」とは異なる響きだ。
穢れは確かに現実に影響しないが、病原菌は影響するぞ道長……。
悲田院に近づいた道兼、道長、従者たちが咄嗟に鼻を覆う。マスクを連想するが、恐らく感染症対策ではない。異臭、死臭が立ち込めているのだ。まひろと乙丸も、ここに入って来た時は鼻を覆っていたが、臭いに慣れてしまったあとはノーガードである。
映像でこれらを伝える演出が細かい。
為時は合点がいったのではないか
病気をきっかけに運命的な再会をする!という昭和のドラマのような展開だが、道長からまひろにかける言葉が、
「生まれてきた意味は見つかったのか」
ああ、ふたりの間の恋慕の情は、通常の男女のそれとは違うものになりつつあるんだな……と思った。己の使命を模索する長い時間が、まひろと道長の関係を変えてゆく。
そして熱を出して倒れたヒロインの頬に手を当てる、これは大河『おんな城主直虎』(2017年)での、小野政次(高橋一生)の仕草である。作品ファンなら反応せずにいられない。
為時(岸谷五朗)は合点がいったのではないか。娘が、婿取りも妾になることもかたくなに拒む理由は、心に思う人がいて、そしてその人とは結ばれぬ関係にあるからだと。
そして、一晩中看病をする道長に、かつて妾のなつめ(藤倉みのり)を看病介護した経験から、深い愛を認めたのだろう。
翌朝、まひろの目が覚める前に帰ってくれと頭を下げたのは、娘の気持ちを思い、道長の立場を慮ってのこと。欲深い男なら、これを機に娘を妾にしてやってくれ、通ってくれと願い出るところだろう。彼は修めた学問を活かして身を立てたいという願いはあるが、娘の結婚を立身出世の糸口にしたいとは考えないのだ。為時の人間としての誠実さを感じる場面だった。
もう1人の誰かがいるわ
「殿のお心には私でもない、明子さま(瀧内公美)でもない。もう1人の誰かがいるわ」
倫子さま、怖いから瞬きしてください。
「……ふふっ」
怖いから、そこで笑わないでください。
腕に抱いてる小麻呂ちゃん(年齢的に2代目かも)の「にゃー」。鳴き声でも中和できない恐ろしさ。
なぜ高松殿(明子のところ)ではないとバレたのか。
道長、普段は高松殿からの帰りだった場合はもっと倫子に気を遣っているのではないか。その仕草をすっかり忘れて、心ここにあらずで「うん」だけで倫子の前を通過した……。
鋭く、敏い女には気づかれますって、こういうのは。……とは思うが、今回は一晩中まひろの看病をしてたんだしね……お疲れ様、道長。体調に気をつけてね。本気で気をつけてね、君の家は乳幼児がいるんだし。
次週予告。まひろ、さわと仲直りできる? いと、大納言とまひろの関係を勘ぐる。倫子さま、直球でお訊ね。関白・道隆倒れる! 来週は実資(秋山竜次)が出ますよ! けしからんふるまいの斉信、どこに手を入れてるんだコラっ。井浦新渾身の芝居が観られる! 個人的には道隆だけでなく、まひろと一緒に悲田院で皆を看病していた乙丸(矢部太郎)が大丈夫か気になる。
第17話も楽しみですね。
*このレビューは、ドラマの設定(掲載時点の最新話まで)をもとに記述しています。