不思議、怖い、でもちょっとかわいい、日本の妖怪の世界へようこそ。
なぜか惹きつけられてしまう、日本の妖怪たちの世界へようこそ。
撮影・黒川ひろみ 構成・中條裕子 文・嶌 陽子
人知を超えた神秘的な現象や、それを引き起こす不思議な存在である妖怪。古代から現在に至るまで人々を惹きつけてやまない理由とは?
口承文芸学や民俗学を専門としながら妖怪に関してさまざまな発信を続ける飯倉義之さんと、中世説話や幻想文学を題材に独特のタッチで描く漫画で読者を魅了し続ける近藤ようこさんに、妖(あやかし)の世界の魅力を語ってもらった。
近藤ようこさん(以下、近藤) 妖怪といえば『百鬼夜行絵巻』ですよね。以前から好きでよく見ているんです。
飯倉義之さん(以下、飯倉) 『百鬼夜行絵巻』は室町時代からたくさん描かれていますが、現在では京都・大徳寺真珠庵所蔵のものが有名ですよね。京都の街を百鬼、つまり妖怪たちが夜行するという当時の俗信を背景に描かれた絵巻物で、ほかの絵巻物と決定的に違うのはストーリーがないということ。純粋に絵だけを楽しむものなんです
近藤 絵が上手だし、動物が出てくるタイプのものは、動物もかわいい。
飯倉 この絵巻に人間はほぼ出てきません。普通は目に見えない百鬼たち、人の目に見えないものを絵にするのが楽しかったんでしょうね。
近藤 鍋や釜、臼など、器物の妖怪も多いですよね。ほとんどに目や鼻、口が描かれているけれど、鍋や釜にはそれがない。逆さにして頭に被っているような形にできるからでしょうか。炎がチラチラ燃えているのもちょっと気持ち悪くて、この造形はいいなあと思います。描いた人もこれを思いついた時はうれしかったんじゃないかな。
飯倉 鍋や釜を掃除せず煤がついたままにしていると、油分に火がついてチラチラ燃えることもあったらしく、それを「狐の嫁入り」と呼んでいた地域もあったらしい。だから、絵のようなことは実際にあったのかもしれません。
近藤 妖怪たちが練り歩くという俗信はあっても、具体的に「こんな姿の妖怪がいる」みたいな記述や言い伝えはなかったんでしょうか。
飯倉 『今昔物語集』や『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』には妖怪に出合ったという記述があるんですが「口に出すのも恐ろしいもの」くらいで具体的じゃないんです。鍋や釜の妖怪がいたなんてどこにも書いてない。全ては絵師の想像力ですね。
近藤 その際に台所道具など、日常の身近なものから想像して作ったのがおもしろいし、ユーモアもありますね。
とにかく種類が多いのが日本の妖怪ならではの特徴。
近藤 こんなふうに化け物を描く文化は、日本以外でもあるんですか?
飯倉 ほとんど聞いたことがないです。特に化け物をいっぱい並べるというのは江戸時代以降の日本の遊びの一つなのかなと思います。
近藤 キリスト教圏だと悪魔が中心になっているので、それ以上イメージが広がらないんでしょうか。
飯倉 たくさん種類がいるという発想が世界的には類を見ないですね。悪魔というのは一つのカテゴリーです。それに比べて日本には妖怪がいすぎるんです。すぐに名前をつけて独立させちゃう。「小豆洗い」なんて、ただ小豆を洗ってるだけなんですけどね。
近藤 しかも、もともとは小豆を洗うような音がしたっていうただの現象なのに、それに名前をつけて独立させてる。
飯倉 僕は「一芸妖怪多元文化」って呼んでるんですけど、「すねこすり」はすねをこするだけ、「頬撫で」は頬を撫でるだけで、一芸しかできない。
世界的には逆で、東南アジアのピー(主にタイ族が信仰する精霊)や韓国のトッケビ(朝鮮半島に伝わる精霊)など、一つの妖怪がたくさんのことをする文化のほうが多いんですよ。不思議なことが起きた時、1種類の化け物の仕業にすればいいのに、日本人はいちいち新しい化け物を作ってしまうところがおかしいなあと思います。
近藤 そういう化け物たちが江戸以降、印刷技術の広がりとともに、皆の共通認識になっていったんですかね。
飯倉 木版印刷による刷り物の力は大きかったでしょうね。江戸末期から明治半ばまで人気だった子ども用のおもちゃ絵にも妖怪づくしがあります(下の写真)。切って貼ったりして、シールみたいにして遊んでいたんです。いつの時代も、子どもたちは「キモかわいい」ものが好きですからね。
近藤 なんだかユーモラスで、妖怪のゆるキャラみたい。今売り出しても人気が出そうです。
飯倉 江戸時代の妖怪すごろくもあります(下の写真)。かさばらないので江戸土産として全国にも運ばれて、それによって妖怪に対する共通認識も生まれていった面もあったんでしょう。
近藤 羽の生えたすりこぎ(1)みたいな妖怪がいますね。
飯倉 これは「とんだすりこぎ」っていう江戸時代の流行語から生まれてるんです。妖怪って洒落から生まれることも多くて。「とんだすりこぎ」は単に「とんでもないこと」をもじった言葉遊びなんですが、そこから妖怪を作ってる。
近藤 当時の子どもたちもこういう存在を知って楽しんでいたんですね。
飯倉 平安期などの人々は迷信深く生きていて、妖怪も本気で怖がっていました。ところが江戸時代になると天下泰平になり技術も向上するので、人間中心の合理的な考えをするようになる。自然の擬人化である妖怪の力は低くなり、化け物なんて本当はいないという前提で「遊んじゃっていいよね」という意識になってくるんです。
猫、狐、カワウソ……。 「化ける動物」の共通点とは?
近藤 ここにいる「幽谷響(やまびこ)」(2)も正体不明ながら獣っぽいし、ほかにも九尾の狐(3)や猫又(4)など、動物がけっこういますね。
飯倉 猫やイタチ、カワウソなど、2本足で立って前足で物を持てる動物は、不思議な力を持っていると思われがちなので、よく化かす動物として登場します。鹿や猪は化けないんですよ。
近藤 カワウソといえば、私の母が子どもの頃、ひいおばあさんから聞いた昔話にこんな話があったそうなんです。夜の暗闇の中で向こうから提灯の明かりが見える。近づいてみると女の子がいるんだけど、その子の顔が真っ黒、歯が真っ白で、実はカワウソだったと。母はその話がすごく怖かったそうです。私はなぜカワウソが化けるのか、ずっと不思議に思っていました。
飯倉 カワウソは水中と陸を行き来するので、人間の手の届かない世界を知っている、とも思われていたのかも。
近藤 謎めいている部分がある動物が化けやすいんですね。
飯倉 猫もどこか不思議なところがありますからね。狐は生態としてちょっとこずるい動きをするので、世界的にもそういう役割を与えられがち。犬は見下されていた存在だったので化けないんです。犬神(5)は犬が化けたというより、虐められた犬の恨みを道具として使っている妖怪ですからね。ちなみに野伏魔(のぶすま)(6)という妖怪はムササビのこと。ムササビやモモンガは江戸時代に人気で、「ももんがあ」というのは子どもを脅す言葉でした。
近藤 モモンガはすごく小さいのに、怖がられていたのが興味深いですね。
飯倉 得体の知れないものと思われていたのかも。しかもモモンガやムササビは宙を素早く飛ぶし、実際に姿をしっかり目にした人はほぼいないはず。そういう見えていないものを絵にするという想像力や遊びが長年続いてきたのがおもしろいなあと思います。
近藤 私は漫画家だから、絵のイメージがどこから湧いてくるのかということに興味があるんです。その意味で、水木しげるさんの想像力もすごいと思います。目玉のおやじなんて、死体から目玉が抜けて独立した存在になるというのをどこから発想したのか……。
飯倉 体の一部が独立して別の生命になるのは日本の民俗文化の中から出てきた発想ではない気がします。水木さんが描いた高知の「山爺(やまじじい)」という妖怪の顔も、イヌイットのシャーマンの仮面を参考にしたそうです。
近藤 子泣きじじいも、どこかのお祭りに出てくるものを参考にしていると聞いたことがあります。本来は全然関係ないものを、うまく当てはめてイメージを作り上げているのがすごい。
飯倉 そこに水木さんの“妖怪センス”を感じますね。しかも元ネタはどれも民俗の中から出てきた造形なので、不自然さがないんです。個人が作り出したものとは思えない説得力がある。
近藤 子泣きじじいは何百年も前からこういう姿だったんだって思い込んじゃいますよね(笑)。
飯倉 言葉も絵も、人々の心を捉えて納得させないと長く残りませんからね。
現代になって一気に広まったマイナーな妖怪「アマビエ」。
近藤 ここ数年では、アマビエが広まったのがおもしろくて。すごくマイナーな妖怪だったのに、ネットなどで一気に全国的になりましたよね。
コロナの時期に、漫画家たちが描いたアマビエを展示するという企画があって、私も依頼を受けたんです。どんな妖怪なのかよくわからないので、私を含めて漫画家それぞれが自分の感覚で描いたんですが、江戸時代もこうやって妖怪が作られたり、少しずつアレンジされたりしたんだろうなと実感しました。
飯倉 まさにご自身でそのプロセスを体験されたんですね。
近藤 コロナの時期だったので、ウイルスも一緒に描くなど、ちょっと工夫したんです。もしその絵がたまたま数百年後に発見されたら、「昔の人はこんな妖怪を信じてたんだ」と思われるのかもしれませんよね。
飯倉 アマビエについては江戸後期の瓦版に絵が描かれているんですが、その絵は無彩色。ところが水木しげるさんが30数年前に描いたものがパステルカラーなんです。茶色っぽい妖怪が多い中、パステルカラーのイメージがその後も踏襲されたことが、アマビエが今の世の中であんなに親しまれるようになった理由の一つかと。
近藤 かわいいというイメージもつきましたからね。一人の工夫でイメージが変わったり広まったり、どうにでもなるのが妖怪だという気がします。
飯倉 妖怪のいいところは「そんな色じゃない」「それは間違ってる」って、否定できないところですよね。だって誰も見たことがないんですから。想像次第でいくらでも遊べるんです。
近藤 その時々でアレンジされながらちょっとずつ姿を変えていって。その中で多くの人の心を捉えたものが、ずっと残っていくんでしょうね。
『クロワッサン』1099号より