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『私が死んでもレシピは残る 小林カツ代伝』中原一歩さん|本を読んで、会いたくなって。

時代を駆け抜けた、人気料理家の記録。

なかはら・いっぽ●1977年、佐賀県生まれ。高校卒業後、博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動を始める。数多くの雑誌やウェブにルポルタージュを発表。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)ほか。
なかはら・いっぽ●1977年、佐賀県生まれ。高校卒業後、博多の屋台で働きながら、地方紙や週刊誌で執筆活動を始める。数多くの雑誌やウェブにルポルタージュを発表。著書に『最後の職人 池波正太郎が愛した近藤文夫』(講談社)ほか。

撮影・尾嶝 太

本誌でもおなじみの料理研究家、小林カツ代さんの生涯を描いたノンフィクション。’05年にくも膜下出血で倒れたカツ代さんは、身体を動かすことも意思表示もできないまま’14年に亡くなった。あれほど元気で明るく、誰よりも前向きで働き者だったひとが、どうして? 多くの人が思ったはずだ。

「運命は残酷です。でもだからこそ誰か第三者が、家庭料理の世界で彼女が果たした功績をきちんと書いておく必要がある。彼女の人生に対して、よかったよ、と肯定してあげたいと思ったのです」

と著者の中原一歩さん。出会いのエピソードは強烈だ。当時ピースボートのメンバーだった中原さんは人気絶頂の料理家に、船上で黒豆の調理をオファー。ところがいざとなって、積まれていたのは調理済みの煮豆だったことが発覚。その場の空気が凍りつくなか、カツ代さんは豪快に笑い飛ばし、急遽メニューを肉ジャガに変更し、その場を乗り切ったという。

以来二人は、なにかといえば夜中までメールをやりとりする仲に。カツ代さんが付き合いなどで意に沿わないものを食べたとき、「食べ直ししない?」と電話がかかってくることもしばしばだった。

「ほんとうに食べることが好きな人でした。そして天才的な舌、味覚を持っていた。一度食べた味は忘れず、どの食材をどう組み合わせればその味になるのか瞬時に判断し、再現できたのです」

さらにカツ代さんが料理家として一歩進んでいたのは、忙しい主婦や働く女性のために、どうしたらもっと簡単に、効率的に料理ができるかつねに考えていたこと。

「極端な例では、できあいの焼き鳥で作る “焼き鳥丼” 。これは手抜きではなく、忙しいなかでどうしたら食卓が楽しくなるか、毎日の暮らしが豊かになるか、考えぬいた結果だと思います」

カツ代さんが生きていたら79歳。どんなレシピを考えただろう。

「倒れる前は、肉ジャガのレシピを高齢者に食べやすい、もっと作りやすいものにしたい、と話していました。食べること=生きること。そんなカツ代さんの哲学の集大成となる、新しいステージへの入り口にいたんだと思います」

彼女は突然いなくなってしまったが、読者からの反響を聞くと救われた気持ちになるという。

「うちもカツ代さんのレシピなの、という声が若い世代からもたくさん届いています。長女まりこさんの言葉どおり、カツ代さんはレシピの中に確実に生きているんです」

文藝春秋 1,500円

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