中央線は身の丈に合った財布で暮らせる街ですーー牧野伊三夫 × 稲垣えみ子 対談
撮影・黒川ひろみ 文・辻さゆり イラストレーション・牧野伊三夫
中央線の魅力を語り合う対談第2弾に登場してくれたのは、学生時代に魅了されて沿線に住んできた画家、牧野伊三夫さんと、牧野さんが「一人中央線」と称するフリーランサーの稲垣えみ子さん。高円寺の銭湯『小杉湯』で汗を流した後、50年高円寺で営業している居酒屋『唐変木』で、同い年の二人のディープな中央線談議が始まった。
稲垣えみ子さん(以下、稲垣) 牧野さんは中央線との付き合いは長いの?
牧野伊三夫さん(以下、牧野) 大学が八王子にあったから、それ以来だね。僕もそうだけど、中央線って地方から出てきて住んでいる人が多いんです。
稲垣 気取らない雰囲気だからかな。
牧野 下町の情緒があるからね。下町といっても中央線の前身の「甲武鉄道」が開通したのは明治時代だから、神田や浅草のような粋な江戸文化の下町とは違う。僕は東海道線も好きなんです。ガツンとした車両で、ガチャンガチャンと停車場を出て、小田原、熱海と、だんだん日差しが強くなる中を海辺に向かって走る感じ。中央線もずっしりとした車両でしょう?でも中央線はもともと山梨と東京を結ぶ鉄道だったから、山に向かう。東海道と中山道の違いといえばいいかな。
稲垣 中央線は東京と山をつないでいるんですよね。私と中央線の関わりは大学が国立にあったというくらいだけど、会社員時代は井の頭線沿線に住んでいたので休みの日は吉祥寺まで出て、高尾や大月(山梨県)へ行きました。あのあたりの山は登り尽くしましたよ。
牧野 稲垣さん、そんなに山が好きだったんだ!
内部で文化が発酵していく中央線カルチャー
牧野 僕は八王子にあった多摩美術大学の大学寮に1年ちょっといて、その後京王線の府中に移りました。その頃、自転車に乗って武蔵小金井や国分寺に行くと、緑が多くて、何かありそうな感じが魅力的だった。村上春樹さんが喫茶店を開いたのも国分寺だしね。古着屋や古本屋、骨董屋があって、酒場もこの店みたいに雰囲気があって、60年代、70年代の文化の豊かさを感じたんです。
稲垣 歴史の厚みがあるよね。
牧野 即席ではない熟成した感じ。カレーやコーヒーがおいしくて70年代のロックをかけている国分寺の喫茶店『ほんやら洞』は常連だったし、自然食が知られていない時代だったけれど、食堂『でめてる』で玄米ご飯を食べていました。府中から武蔵小金井の古いアパートに移ったのは、広告会社をやめる26歳の時ですね。
稲垣 八王子の学生寮から国分寺に通っていたんですね。私は牧野さんと同い年だから、考えてみたら私も当時大学生だったわけですよ。あの頃、玄米ご飯を出す店なんてほとんどなかった。
牧野 考えてみたらって……(笑)。時々、おもしろいこと言うよね。
稲垣 だけど、その頃はバブル時代だったでしょう?だからイケイケの方向にばかり目が向いて、古着や自然食といった中央線文化はまったく眼中になかった。牧野さんにはその頃から私とは違うものが見えていたんですね。
牧野 稲垣さんが大学に入った頃、国立には『ロージナ茶房』とか喫茶店の『邪宗門』があったじゃない?
稲垣 よく知ってるなあ。八王子のくせに(笑)。
牧野 ちきしょう、バカにしやがって(笑)。僕は今小平に住んでいるんだけど、中央線に来ないと心が高まってこないんですよ。
垣 本当に中央線が好きなんですね。小平は「ネオ中央線」なんですか?
牧野 ネオ……(笑)。素晴らしい言葉だね。これからそう呼びます。
稲垣 文化って周辺に派生しますよね。本当の中央線文化は、ネオ地域に残っているんじゃないですか?
牧野 そこが中央線のすごいところで、「ネオ」には文化が流れないんですよ。内部で文化がどんどん発酵していく。僕が「中央線カルチャー」という言葉を最初に目にしたのは『東京人』という雑誌。その頃たびたび中央線の特集を組んでいたんです。それを見て中央線って文化だったんだ!って。
稲垣 私は社会人になって読んだ、ねじめ正一の『高円寺純情商店街』かな。それまで高円寺は駅を通過するだけで、意識することすらなかった。
牧野 中央線は美大生に優しかったんです。例えば、吉祥寺に昔、絵描きや文学者が集まる『豊後』という居酒屋があって、そこでは「絵描き」と名乗ればお金をとらなかった。そういう店もあったんですね。
稲垣 世の中の流れとは違うところに行った人や、行こうとしている人の“場所”があったということですね。だけどそれでもお店が成り立つということは、ちゃんとお金を払っているその他大勢のお客さんがそのお店を支えていたということなんですよね。そんな層の厚みが中央線の豊かさだと思います。
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