高座にあがる前の“おまじない”を考察。│柳家三三「きょうも落語日和」
イラストレーション・勝田 文
「高座にあがるときは緊張するんですか」と、たまにご質問をいただきます。いちおう毎回お客さまの前でしゃべるので緊張感は持っているつもりなんですが。まあ、そう見えないということはみなさんにも無駄なピリピリした空気を与えないので良しとしましょう。
亡くなった古今亭志ん朝師匠が楽屋で仲間と馬鹿話を軽くして、スッと真顔になると着物に着替える。顔や髪の毛を少し整えると、お茶を飲みながら根多帳を見てその日の演目を決める。出囃子が鳴ると立ち上がって高座袖、そのまま出てゆくのかと思うと立ち止まり、扇子で手拭いに三度“人”という字を書いてそれをスウッと呑み込むおまじないをすると、万雷の拍手に迎えられて高座へ……。高座のえもいわれぬ華と色気のあったお姿だけでなく、楽屋にいるときからすべてがすてきな志ん朝師匠でした。
この“人の字を書いて呑む”おまじない、「人を呑んでかかる」という、つまりあがらないようにというのはよく知られたところですが、入船亭扇遊師匠は、あるかたから「右利きの人は右の手の平に“人”の字を書く。つまり“利き手(聴き手)”を呑むんだよと教わったそうです。
そそかっしいことで楽屋では有名な当代・柳家さん助さんは手の平にせわしなく三べん書いた人の字に口を近づけると「フッ」と息を吐いて吹き飛ばしちゃったというすごい逸話の持ち主。まァそれくらい人を人とも思わなければ大丈夫ですよね。ちなみに私は……何もしません。もし忘れたら気になって落語日和どころじゃなくなっちゃうでしょ。
柳家三三(やなぎや・さんざ)●落語家。公演情報等は下記にて。
http://www.yanagiya-sanza.com
『クロワッサン』984号より
広告