『その話は今日はやめておきましょう』著者、井上荒野さんインタビュー。老いていく日々を、アグレッシブに。
撮影・中島慶子 文・後藤真子
「定年後の誤算。」と、帯に大きく記されている。井上荒野さんの新作は、平穏に老いていくはずだった初老の夫婦の日常が、ある青年の登場によって揺らぎ始める物語だ。と聞くと、どんなエロティックなことが起こるのかとドキドキしてしまうが、さにあらず。
サラリーマンだった昌平と主婦のゆり子は、都内の一軒家で、割と裕福に暮らしている。定年後の趣味として夫婦でクロスバイクを始めると、それをきっかけに今まで関わったことのないタイプの青年、一樹と知り合う。折しも昌平が足を骨折。老いという現実に戸惑う中、夫婦は彼を家事手伝いとして招き入れる。若くたくましい一樹は頼もしかったが、やがて家の中で小さな物が消え始め――。
「うちも夫婦二人暮らしで、週1回掃除に来てくれる男の子がいます。やめられたら困る存在なんです。彼はすごくいい子だから絶対しないけど、ふと、もしも私が置き忘れた1万円札を彼が持って行ったとしても、私はそれを言わないんじゃないかと思いました。ではもっと悪いことをしたら、あるいは私たちがもっと高齢で彼に依存していたら? そう考えて、この小説を書きたくなりました」
昌平、ゆり子、一樹の視点で物語は進んでいく。夫と妻それぞれの心の内と、貧しい家庭に育ち、社会の底辺で生きる青年の事情が、精緻に描写されていく。
「悪いことをする青年の視点は必ず入れようと、最初から決めていました。人間が悪いことをする時には、本当にエゴイスティックなものであっても自分の中に理由や理屈があるはずです。それがどういうものなのか、小説的に私はとても興味があります。人間は誰一人同じではありません。誰にも過去があり、理屈があり、感情がある。小説に役目があるとしたら、それを描くことだと思います」
井上さん自身、50代でクロスバイクに乗り、手首を骨折した。老いを意識する年齢になると、いろいろなことが昔とは変わってくる。できなくなることも増えてくる。つい心細くもなる。しかし昌平とゆり子は諦めない。その姿に、老いてもなお日々は新しいのだと気づかされ、励まされる。趣味なり何なり未知の世界に踏み出せば、怖いこともあるけれど、きっとそれだけではないのだと。
「私もこの先、年を取っていきます。でも70歳ぐらいでいろいろ諦めたくはありません(笑)。老いに抵抗するのではなく、老いとして体の変化は受け入れつつ、精神は自由でありたい。アグレッシブに老いていきたいですね」
毎日新聞出版 1,600円
『クロワッサン』980号より
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