【女の新聞 100年を生きる】森田京子さん──90を超えて語られた戦争と被爆の記憶。16歳が見た光景を想像してもらえたら
撮影・土佐麻理子 文・寺田和代
16歳の夏、長崎原爆で両親と弟3人を失い、反戦と反核の意志を胸に秘めたまま90歳を超えた母、森田富美子さんの記憶を聞き取り、この夏、母と連名で2冊の本を出した娘、森田京子さん。母娘二人三脚で伝えたメッセージとは。
公私問わず“ハハ”と呼び記す母のまたの名は、9万近いフォロワーを持つX(旧ツイッター)のアカウント名“わたくし96歳”だ。
「Xなどでの発言を機にマスコミの取材を受けて記事になっても、ハハが拾ってほしかった話とのギャップに徐々にストレスが募って」
原爆で即死した家族を火葬にしたことなどは記事になるけれど、原爆投下翌日の爆心地で再会した“鹿児島から挺身隊として来ていた14歳の女学生”のその後や親族につながれば、との一心で話したエピソードは拾われなかった。
「時は過ぎ関係者は次々鬼籍に。ハハの焦りが頂点に達したのが去年の夏。私も同じ気持ちでした」
で、母に伝えた。「ハハが戦争について語った言葉を書き留めてる。本にできないか頑張ってみる」
厳しい体験だけでなく、娘から見ても底抜けに明るく自由な心で戦後を生き延びた一人の女性としての魅力を、閉塞感やキナ臭さが漂う今を生きる人々に伝えたかった。
やがて2社から出版のオファーが届く。断片的記憶では足らない部分を母から聞き取る作業が始まった。最も苦労したのは被爆当日の描写、即死した家族との別れ。
「語りながらハハはトラウマを負った時の感情に戻ってしまう。確認のために聞き返すと、なぜ訊くんだ! と気色ばむ。私は、遺すと決めたのはあなた、でも今日はここまでね、夕飯どうする、とスッと空気を変える。するとハハもスッと現実に戻り、数日後に続きを再開できる。その繰り返しでした」
富美子さんと母親の別れの場面では、京子さんの涙の堰が決壊。
「私が感情を重ねていたら書き通せない。以後は自覚的に心を遮断。感情って切り離せると知りました」
一瞬で家族5人を亡くし、妹と2人だけになった体験にもかかわらず、母が深刻な心の後遺症に陥らず生きてこられたのは、その後を支えてくれた温かなおじおば夫婦がいたからこそ、という再発見も。
「その意味で母は幸運な人」。その延長上に母と家族の、今に至る80年の幸せが拓けたと感じるから。
京子さんの目には昔から面白く独創的で温かな母。京子さんが20代半ばで単身上京を決めた時は「あんたならできる」と背を押し、プロとして成功したのち2度目の大学に入学した年には娘の奮起に鼓舞され、長崎から家出(=上京)。以来、母娘で楽しく暮らす。
「家出当時のハハは78歳。すでに父を送り、この先まだまだ自由に生きられると考えたのかも」
被爆80年の今夏は2人で長崎へ。あの日生き別れた鹿児島の女学生の関係者にはまだ会えないけれど、命ある限り反戦と反核を訴える母を支え、記憶の継承を自らも担おう、と心に決めている。
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マガジンハウス クロワッサン編集部「女の新聞」係
『クロワッサン』1151号より
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