保坂和志さんが今読みたい本 テーマ「本の読み方」
撮影・黒川ひろみ 文・保坂和志 構成・堀越和幸
二冊目『プルーストを読む生活』。
柿内正午さんが、全十巻の『失われた時を求めて』を読んでいた丸一年とちょっとの日々の日記や読書の記録などが書かれている。その10日目。
「今日も朝の通勤電車でプルーストを読んでいた。
今朝の「私」は散歩をする。歩いているうちにテンションが上がってきて「ちぇっ、ちぇっ、ちぇっ」と奇声を発しながら傘を振り回す。歩きながら、この田舎道でヤらせてくれるエロい農家の娘とばったり出会えたりしないかなあなどと妄想し、もちろん出会えず、トイレでオナニーをする。これらが文彩豊かに、回りくどく描写される。プルーストは馬鹿なのかもしれない。」
柿内正午さんもここで、さっきの(3)を発見している(誤解のないよう書き添えておくと、同じ日の日記で「性の話はプルーストは好きみたいだが僕は少し苦手だ」と書いている)。柿内さんは(1)についてもP.142〜3に書いてる。書き写したいところだが、自分が書いたこととダブるし、紙面の制約もあるので割愛。
『〜を代わりに読む』もそうだったが、この本と次の『読書の日記』は読んでいる本の書き写し(抜き書き)が多い。学校では要約はさせられたが書き写しはさせられなかった。同じく、感想文は書かせられたが連想文はなかった。
要約や感想文は型にはまっていて読書の楽しみから遠い。書き写しと連想こそが読書の楽しみで、AIに感想文は書けても連想文は書けない(たぶん)。
柿内さんは本を買いもするが借りもする。借金ならぬ「借本で首が回らない」(P.620)なんて書いてるくらいで、一度に上限の二十冊借りたりして節度がないが、この節度のなさは見習いたい。人は何ごとにつけても節度を持ってしまう。体でする行動も頭の中でする連想も、みんな、誰から言われたわけでもないのに、ほどほどのところで歯止めをかけてしまう。私のこの文章がどこまで説得力あるか、わからないが、歯止めは自分ひとりのものであるはずの空間を社会に譲り渡すことに通じる。読書は社会から身を守る砦だ。
節度のなさ、歯止めのなさの代表が『読書の日記』の阿久津隆さんだ。
私は女性誌だというのに男ばっかり三人を選んでしまったが、この三人は世間の「男性性」(昔の言葉で「マッチョ」)とはほど遠い。というか、この三人を知れば、世の中にある二分法が無意味とよくわかる。男女の二分法だけじゃない。無駄話がいつの間にか核心を射抜く。へなへなしてるのに心は折れない。
『読書の日記』はシリーズでこれは今のところ最新で六冊目(「皮算用/ストレッチ/屋上」という副題つき)。文庫サイズだが660頁で厚さは5㎝(『プルーストを読む生活』も普通の本のサイズで750頁超)。それで5月23日から9月10日まで110日分。1日平均して3600文字くらいか。すごい量だ。それを阿久津さんは「fuzkue(ふづくえ)」という本を読む店を経営しながら本も日々いっぱい読みながら書いた。
阿久津さんの文章からは、アスリートの躍動を見るみたいな元気がもらえる。みんなが、空気を読んで、そこそこに留めている時代に、天然の多動で自分の世界を切り開いている。手当たり次第に本を読む。本への根本的な信頼がある。凹む日もあるが、本を読むと立ち直ってる。
友田さんも柿内さんも、三者三様に、本を読むということが、社会に埋没せず、自分のための空間を確保することだということを証明してくれている。この三人の独自性に、ひとりでも多くの人が触れてくれたら、きっと明日は明るい。
上・『「百年の孤独」を代わりに読む』(友田とん著、ハヤカワ文庫、1,298円)
G・ガルシア=マルケスの小説『百年の孤独』をあなたの代わりに「私」は読む。が、読もうとするとつい話が横道に脱線してしまう。なのに気づけば……。要約や解説では伝えられない読書の真髄に迫ろうとする驚異の一冊。
中・『プルーストを読む生活』(柿内正午著、H.A.B、3,245円)
うっかり買ってしまったプルースト10巻セット。せっかく買ったから毎日読んで毎日日記を書く。が、本題にはなかなか触れず、連想本に遠回りしながらのろのろと進む読書。ただ読むうれしさだけがそこにある、読書日記。
下・『読書の日記 皮算用 ストレッチ 屋上』(阿久津隆著、NUMABOOKS、2,750円)
本の読める店『fuzkue』店主による読書日記。レオナルド・パドゥーラ『犬を愛した男』、千葉雅也『アメリカ紀行』など、20以上のタイトルが登場。読み、書き、店を営む、日常の思惟が本を介して繋がる。
『クロワッサン』1136号より
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