「手料理で食卓を囲むひととき、母と僕は外の世界とつながった」(山田宗宏さん「母と僕をつないだ料理」2)【助け合って。介護のある日常】
撮影・井手勇貴 構成&文・殿井悠子
「手料理で食卓を囲むひととき、母と僕は外の世界とつながった。」山田宗宏さん
母親の素枝子(そえこ)さんに認知症状が出るようになり、東京から実家がある淡路島に拠点を移した山田宗宏さん。約40年ぶりの母親との2人暮らしで、山田さんは初めて本格的に料理をするようになった。
「昔から、母とはよく意見がぶつかるのですが、おいしい料理を囲めばにっこり。好物は僕と同じカレーでした。東京で買い集めたスパイスを使ったキーマがベースです」
かつては島の中心地だった商店街で、化粧品などの販売をしていた素枝子さんのもとには、お店を閉めてからも近所の人たちから差し入れが届く。あるときは野菜が玄関に置かれていたり、またあるときはお手製の料理を持って来てくれたり。9人の孫も代わる代わるやって来たし、東京から山田さんの友人が遊びに来ることもあった。そんなときは、素枝子さんもおめかししてお出迎えし、山田さんは決まって手料理を振る舞った。介護は閉ざされた世界で行われると思っていたが、温かい料理で食卓を囲むひととき、素枝子さんと山田さんは外の世界とつながっていた。
素枝子さんの認知症はゆっくり、でも確実に進行した。最終的に要介護4の認定を受け、自宅に週6回、1日2回ほどヘルパーさんが来た。訪問看護とリハビリは週1回ずつ、主治医の先生は月に3〜4回様子を見に。ヘルパーさんの介護する姿を見るたび、山田さんは「他人の親なのに、なんでこんなにも一生懸命介護してくれるのだろう」と感動し、励まされた。また、担当ケアマネジャーさんに「母を笑わせてくれるような人に来てほしい」とリクエストして、話し相手も兼ねてマッサージ師をアレンジしてもらうこともあった。
こんなふうに、手が足りない部分はプロの手を借りながら、2人は穏やかな日々を過ごした。だが淡路島に戻って5年目を迎える頃、山田さんは胃潰瘍で倒れてしまう。素枝子さんの認知症が進んで排泄が理解できなくなり、朝起きてリビングに行くと便が転がっていたり、ベッドのシーツがびしょびしょに濡れていたりすることが日に何度もあり、その掃除や洗濯に追われていた時期だ。
「皆さんに手厚くサポートしてもらいましたが、限界でした」
担当ケアマネジャーが急いで施設を探してくれて、素枝子さんは高齢者施設に入居した。負担が消えた山田さんだったが、素枝子さんに料理を作れなくなったら心にぽっかり穴が空いた気持ちになった。(続く)
『クロワッサン』1134号より
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