『日本蒙昧前史 第二部』著者、磯﨑憲一郎さんインタビュー。「小説は、読んでいる時間そのものなんです」
撮影・中島慶子
「小説は、読んでいる時間そのものなんです」
前作『日本蒙昧前史』から4年、待望の続編は、パンダ来日やオイルショックなど主に1972年ごろの出来事や騒乱が、依存性の高い文章で繋がれていく。
「幼いころ、ゴジラ目当てで行った映画館で併映されていた『パンダコパンダ』、『スター千一夜』というテレビ番組で見た日本一の美男美女といわれた俳優同士の結婚。書き始めは、自分の中に残っていたそんなごく私的な記憶が発端です。そこからひたすら書き継いでいきました」
今年でデビュー18年目を迎える磯﨑憲一郎さんだが、キャリアを積み重ねるほど、確信に近づいてきたことがあるという。
「小説は、何を書くかじゃない。どう書くか、いかに語るか、その文章技術であると。その〝語り口”を、前作を書く過程で掴んだんですよ。これならいける、って」
語り口についてさらに聞く。
「例えばこの本で特撮の歴史について語り始める部分。〈戦後の貿易立国日本を支え、「メイド・イン・ジャパン」の刻印が高品質を保証する主力輸出品であったトランジスタラジオ、カラーテレビ、一眼レフカメラが何れも日本で発明された商品ではないのと同様に、〉とある。これ、後に続く特撮の話とはまったく関係のない話なんですよ。でも分量のあるこの文を置くことによって、小説がぐっと立ち上がる。そういう技術は、自分でもうまくなったなと思います」
確かにこの小説は読んでいる間ずっと楽しく、そして内容より文章に酔いしれている感じがする。
「そう、小説って、読んでいる時間そのものなんです。その時間の中で起こる高揚や不穏さ、気持ちのざわつき。そういうものでしかあり得ない。でも今はテーマやメッセージを込めた作品全盛で、格差社会の話だよ、ジェンダーの話だよ、など整理されて概要も書きやすい小説に人気が集まる」
歴史が整理されてしまうと、そこに個人の感情は残らない。
整理されたものへの抵抗感は、歴史に対しても強い。実はこの小説、精緻な記述の中に時折大胆に史実と異なる部分がある。
「これは事実と違うんじゃないかと言う人がいますが、史実を書いてませんから。全部嘘(笑)、フィクションです。この小説を書くモチベーションになっていたのは、歴史が単純化されてしまうことへの違和感。歴史は必ず後の時代に“こんな事件があったから戦争が起こりました”などと因果関係を明確にして整理されてしまう。個人の感情とか不安とか焦燥感とか、そういうものは全部抜け落ちて語られる。それを受け止める器となり得るのは、やっぱり小説、フィクションである気がするんですよ」
〈近世最も幸福な時代として回顧されることになろうなどとは考え及ばぬままに、当時の我々は貧しく倹しい、その日暮らしの生活を送っていた〉。
改めて本書を読み返すと、冒頭にあるこの文にも、磯﨑さんの思いが集約されていたことに気づくのだった。
『クロワッサン』1123号より
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