杏さんが映画『かくしごと』で演じた直球の母性。「このタイミングなら演じられると思いました」
撮影・金井尭子 スタイリング・中井綾子(crêpe) ヘア&メイク・犬木愛 文・川口ミリ ©2024「かくしごと」製作委員会
今の私だったらできるかもしれないと思えた役。
「まるで箱庭の中で、はかない花が枯れるまでのひと時みたいな物語だなと。世界から隔絶するようにして、田舎にある一軒家の敷地に、主人公の千紗子が作り上げた一瞬の夢のように感じたんです」
杏さんがそう詩的に言い表したのは、主演映画『かくしごと』。介護が必要な父親と二人で暮らす千紗子はある晩、記憶喪失の少年と出会い、体の傷跡から虐待を疑う。そこで自分が母親だと偽り、「拓未」と名づけ、自宅に迎えることに。この“嘘”を巡るヒューマン・ミステリーだ。
「今の法律や社会において、普通かそうでないかを分けるラインがあるとして、千紗子は目の前で傷ついている少年を救うために、軽々とそれを飛び越えます。たとえば150年以上前の日本には仇討ち制度があったり、倫理観や死生観は時代や場所によって大きく異なります。つまり状況が違えば、千紗子の行動はまったくもって正しいかもしれない。私自身、彼女は間違っていないのかもしれないなと思います」
過去のトラウマから、そんな大胆な選択をする千紗子。杏さんの演技により彼女が常軌を逸した存在ではなく、この映画を観る私たちの延長線上にいる“普通の人”だと伝わってくる。
「自分にとってそうせざるをえない道を選んだ結果、
監督・脚本を手がけたのは、『生きてるだけで、愛。』(18)の関根光才監督。杏さんによれば、「生の感情を大事にされる監督で、撮影現場ではあえてテストを重ねず、どんどん本番に行きました」。認知症の父・孝蔵を演じたのは、奥田瑛二さんだ。
「現場での待ち時間も役から抜けきらない状態でいらしたので、“奥田瑛二さん”という方をまだ知らない気がするんです。孝蔵さん役として実際に目の前にいらっしゃると、やっぱりお体が大きいですし、『介護をしていて倒れたら危ないな』『暴れたら大変だな』と、身をもって感じました。それだけキャラクターに没入していらしたし、そうでなければこの作品はきっと生まれなかったはず。横で見ていて、すごいアプローチだと思いました」
拓未役の中須翔真さんには、子役ながら、共演していてある種の畏怖さえ感じる瞬間もあったとか。
「ラストについて詳しくは言えないんですけど、実際に演じるまで、そのシーンで感じる拓未への思いは愛おしいとか哀しいとか、そういう温かいものだと思っていたんです。それが現場で翔真くんの表現を目の当たりにして、背中に雨だれがヒュッと落ちてきたみたいな、ちょっと逃げ出したくなるような末恐ろしさを感じてしまい。やっぱり、この作品はミステリーなんだなと」
最初に脚本を読んだ時は、「すごく難しいシチュエーションの役だけど、今の私だったらできるかもしれない」と感じ、オファーを引き受けたという。
「36年生きてきて、また母親として数年が経った今感じるのは、年を重ねると感情が豊かになり、幅も広がってくるということ。涙もろくなるし、感動もするし、怒りもある。役者としても場数を踏んできたこのタイミングなら、演じられるのではと思いました。実は近年、役を演じる上では、自分が母であることを押し出しすぎない方がいいかなと思い、母親じゃない役を選んできたんです。ここであえて直球の母性に取り組んだのは、脚本がすごく面白いのでやってみたいというその一心からでした」
役を無理に自分自身に引き寄せることはしない。独立した個人として尊重するのが、杏さんのスタイルだ。
「役との出会いはいつもなんかこう、友人が増えるみたいな感覚。友人に対して、わざわざ似ている部分を探すことはあんまりないですよね? だって、その人はその人だから。それと同じで基本的に、役と似ているかどうかは考えたことがありません。自分の体を使って演じてはいるけど、私とは違う人だっていう認識です」
撮影期間中はシリアスなシーンが多く、2日に1回くらいは泣いていたそうだが、それもあくまで千紗子の涙であって、「私の涙ではないです」と念を押す。
「テクニックで流している涙ではないというか。泣く時の気持ちを私なりに噛み砕くと、ただ悲しいからというより、過去にいい思い出があって、それが失われるからだと思うんです。楽しいとか嬉しい経験が根底にあった上で、今それを追い求めて叶わないと、涙になる。自分自身を振り返ってもそうだなって。だから撮影に入る前に、そういう千紗子の大切な思い出をいくつも妄想して、膨らませておきました」
「泣くのはただ悲しいからではなく、楽しい過去が失われたから」。“楽しい”や“嬉しい”が基準になっているところに、杏さんならではの健やかな感性がにじみ出る。
「どうしてあんなに泣いたのかも思い出せないけれど」、という歌い出しの主題歌「tears」は、国内外で支持されているオルタナティブロックバンド、羊文学による書き下ろしだ。
「『大丈夫だよ』と足どりを軽くしてくれて、希望が持てる曲だと思いました。ストーリーが終わった後、台詞のないワンカットを挟み、曲が流れるエンドロールが始まるんですが、前向きに未来に進んでいけるようなテンポが心地いいです。重すぎない気持ちで劇場を後にできる感じがしました」
日頃から子どもたちに伝えている「親も絶対ではない」ということ。
育児にまつわる社会問題を描いてもいる本作。3人の子どもを育てている最中の杏さん自身、どうしたら子どもが安心できる世の中を実現できるのか、思いを巡らせる機会も多いという。
「育児は言ってみれば、ベルトコンベア式。大体のケースにおいて、子どもは成長するにつれてできることが増えるので、親にとって、その時々の悩みは一過性で終わってしまう。それで、問題が表面化しづらいんじゃないかと思うんです。私自身、子どもたちがまだ赤ちゃんの頃、何に困っていたかと考えると、記憶が薄れていて。新たに親になった人たちは、また同じことで悩むというその繰り返し。だから、今自分が感じていることを忘れず、考え続けなくちゃ、と。その上で投票に行くとか、積極的に意見を言うとか、世の中を変えるチャンスがあるなら、行動できる自分でありたいなと思います」
本作の撮影が終わった直後から、杏さんは子どもたち、そして愛犬とともにフランスでの生活も始めた。ニュース一つとっても、日本との違いを感じるそうだ。
「フランスと日本のニュースを両方チェックし、同じ話題について、どちらでどう報道されているかを見比べています。最近は日本のネットニュースを読み、その話題性を判断しかね、友だちに聞いてみると、『そこまで大きい報道じゃないよ』と言われることもあったり。これから先、そういう国家間のギャップみたいなものが、私の中でどう積み重なるのか、またそれを埋める必要があるのかなど、自分でも興味があります。子育てのことでいうと、フランスは法制度や基本的な感覚として、子どもありきで社会を回すことが、日本以上に根づいているのかなと感じます」
自身の子どもたちに伝えようとしているのは、「
「そこまで自信がないからというのもあるんですけど、『親だから偉いとか、言うことを聞かなければいけないわけではないから、間違いがあったら正してほしい』とお願いしたり、何か聞かれたら『一応答えるけど、それが正解かどうかは誰もわからないよ』と前置きしたりするようにしています」
育児に家事に仕事に多忙ながら、生き生きと輝いている杏さん。とにかく体力勝負の時期だからこそ、気をつけているのは、しっかりと眠り、休むことなのだそう。
「ショートスリーパー気味で、眠りの環境を整えようと、最近、睡眠アプリを取り入れました。睡眠の時間や、浅い/深いを計測・記録できて、生活習慣の改善に役立つんです。忙しい中で休みをいかに確保するかは、永遠の課題。以前は何もしない時間を持つことへ、どこか抵抗感がありました。仕事や予定を詰め込めば満足感も得られるけど、
30代後半の充実した日々を過ごしている今、少し先の40代に向けてはどんな準備をしているのだろう。
「ケアは必要だなと思っています。体力作りはもう始めていかなければ。20代は仕事に途切れ目がなく、数本の作品が同時に重なることもありました。でも、今はそれが物理的にできないので、どれだけ一本一本を深く追究できるかに注力したいです。素敵だなと思う歳上の方たちは、やっぱりスタミナがあって健康的。あとは、優しくて思いやりがある方にも惹かれます。話しかけやすい、垣根の低さがあるというか。私自身もそういう人間性を大事にしたいです」