【歌人・木下龍也の短歌組手】視覚から聴覚への巧みなずらし。
〈読者の短歌〉
いつまでも心は歳をとらなくて奇跡のように明るい窓辺
(はるな/女性/自由詠)
〈木下さんのコメント〉
たまにこういう短歌に出会いますよ。うつくしい泉からすっとすくいあげたような澄んだ短歌に。汚れちまったおれは「奇跡のように」→「明るい」という安易な連なりにいちゃもんをつけたくなるが、そいつぁ野暮ってもんだぜ。
〈読者の短歌〉
ペットボトルの蓋に収まるような些細な愚痴だけど、ねぇ、聞いて
「私の悩みや愚痴なんて、他の人が聞いたらペットボトルの蓋に収まるくらいの本当に小さくて些細でどうでも良いことなんだろうなと思い言うのを躊躇してしまっていたのですが、先日勇気を出して人に話したところ、スッと心が軽くなりました。これからは抱え込まずに人に聞いてもらおうと思いました。」
(はみを/女性/テーマ「私」)
〈木下さんのコメント〉
「ペットボト/ルの蓋に収/まるような/些細な愚痴だ/けど、ねぇ、聞いて」と区切れば57577で読むことができますが、上句(57577の575の部分)のがたつきがすこし気になります。例えば「ペットボトル」を4文字の商品名に変えてみることも可能ですね。何があるかな。「いろはす」「エビアン」「綾鷹」「伊右衛門」「スコール」とか。ぱっと思いつくのはこのくらいですが、表現を具体的にしてみるというのもひとつの手です。
いろはすの蓋に入れてもこぼれない些細な愚痴だけど、ねぇ、聞いて
ただ、こうすると「ペットボトル」という普遍性が消えてしまうので悩みどころではあります。
〈読者の短歌〉
かぶとむしゼリーの赤い透明をひかりに透かせば夏がきこえる
(砂崎柊/男性/テーマ「ペット」)
〈木下さんのコメント〉
ずっと耳に入り続けている周囲の音(蝉や風鈴など)が「ひかりに透か」した「かぶとむしゼリー」に見とれた瞬間にふっと聞こえなくなり、はっと我に返ったとき、また周囲の音が聞こえるようになる。夏の象徴である「かぶとむしゼリー」が引き金になり、これまで耳に入ってきていた周囲の音は夏の音だったんだなと実感した。そういう光景でしょうか。視覚から聴覚へのずらし方も巧みです。何か手を加えるとすれば、1首のなかに「透」という字が2回登場しているところが個人的には気になります。例えば「透明」を
かぶとむしゼリーの赤いおろかさをひかりに透かせば夏がきこえる
かぶとむしゼリーの赤いあやうさをひかりに透かせば夏がきこえる
かぶとむしゼリーの赤いやさしさをひかりに透かせば夏がきこえる
かぶとむしゼリーの赤いさみしさをひかりに透かせば夏がきこえる
かぶとむしゼリーの赤いかよわさをひかりに透かせば夏がきこえる
とすることでそれは回避できますが、どうでしょう。意味が入りすぎちゃってますかね。「透明」でいいような気がしてきました。では「透かせば」に手を加えて、
かぶとむしゼリーの赤い透明をひかりに刺せば夏がきこえる
うーむ。「刺せば」じゃないなあ。穏やかな夏の感じがほしいんだよなあ。
かぶとむしゼリーの赤い透明を陽に重ねれば夏がきこえる
これでどうでしょうか。うーむ。
木下龍也
1988年、山口県生まれ。2011年から短歌をつくり始め、様々な場所で発表をする。著書に『つむじ風、ここにあります』『きみを嫌いな奴はクズだよ』がある。
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