<生けがきのテッセンの紫が目にとまれば主に一輪を乞う。路傍に花器に使えそうな割れ竹でも落ちていれば泥まみれのそれを拾ってくる>
そんなふうにして山草や野草を生けるようになって20年という、小田原のお寺の和尚さん。沓脱石の上に農具の箕をあわせ、イタドリやツリバナをあしらう。エノコログサやアキノキリンソウ、カワラナデシコを江戸時代の瀬戸の徳利に挿し、縁側にぽんと置く。
華美ではないけれど、どこか物語を感じさせるような草花の静かな佇まい。折々に生けてきた草花の写真と言葉が紹介されている記事は、見開きという箸休めページながらも、その誌面だけ時間がゆっくりと流れているようで目を引きました。
野草の葉焼けや虫食いは、ともすれば美しくないものと避けられがちですが、和尚さんからしてみれば、それは生きてきた過去を表す、大切なもの。なぜなら<人間だって悩んだり、苦しんだり、傷ついたりして生きるんですからね>と語ります。
そんな野草の来歴に思いをはせながら、<よく似合う花器を見合せてやる>のが和尚さん流の生けかた。それはときに、台所のザルだったり、欠けたそば猪口だったりするといいます。
単なるきれいさとは違う、情感あふれる美しさ。それは、草花の来しかたを思い、それを最大限生かそうとする想像力から生まれたものに違いありません。花を生けるとは、つまるところ「花を生かす」なのだと感じ入りました。
※肩書きは雑誌掲載時のものです。