『初子さん』赤染晶子 著──夢うつつで読めば、気もそぞろ
文・酉島伝法
あなたが食べるのはあんパンだろうか、クリームパンだろうか。
赤染晶子『初子さん』は、生きた関西弁が飛び交うおかしみのある日常に切実さが迫り出してくる、類のない三作を収録した作品集だ。2004年のデビュー作「初子さん」では、子どもの頃の夢を叶えて洋裁の職人となった初子さんが、あんパンとクリームパンしか作れない上に中身を取り違えるパン屋に下宿し、ひとりミシンを踏む出口のない日々を過ごしている。単行本初収録となる「まっ茶小路旅行店」は、海外の危険情報を収集しつつも世界平和を装って笑顔で旅行を勧める、路地にある社員三人の旅行代理店の話。二作ともすばらしいが、その間に挟まる「うつつ・うつら」は、いったい他の誰が書けるだろうという境地に達した一編だ。
いつの頃からか京都の舞台に赤振袖姿で立ち、「わて、実はパリジェンヌですねん」などと漫談をする何歳とも知れないマドモアゼル鶴子。漫談のタイトルは「法事でジュテーム」。いつか女優としてスカウトされることを夢見ながら漫談に励んでは、階下の映画館から響き渡る声に邪魔をされる。双子の漫才師「夢うつつ・気もそぞろ」などと共に、ぬるま湯に浸かった日々を送っていたが、ある日そぞろが耐えかねて逃げ出し、鶴子とうつつはコンビを組むことになる──そのおかしみに笑いながら読んでいたが、九官鳥のパリ千代までが漫談に加わりはじめると、いま自分はなにを読んでいるのかと呆然とし、狂気とも切なさとも優しさともつかないものに対面させられる。
これだけの作品が長らく埋もれ、危うく出会えないところだったと思うと怖くなる。そうならずに済んだのは、元新潮社の編集者、加藤木礼さんがpalmbooksというひとり出版社を立ち上げ、第一作として赤染晶子初のエッセイ集『じゃむパンの日』を刊行してくれたおかげだ。タイトルやノート風デザインのすてきさ、岸本佐知子さんとの交換日記に惹かれて手に取ったが、読むなりあまりの面白さに抱腹し、絶倒した。入院中には同室の人が距離を詰めてくるため雪山で遭難したようにおちおち寝ていられない、教習所では右折すべきところを何度挑んでも左折してしまう、といったエピソードがピンポン玉を打つような軽快さで語られる。交換日記も次元の歪む楽しさだ。これほど面白い作家をどうして今まで知らずにいられたのか……。けれど、こちらの視界をさらりとすり抜けていたあたりも著者らしい気がする。
高揚する出会いだったが、赤染晶子さんは2017年、42歳という若さで世を去っていた。もちろん何度でも読み返すことができるし、これまで書かれた著作もある。だが数は少なく、どの本も入手が難しくなっていた。幸い『じゃむパンの日』が反響を呼び、芥川賞受賞作『乙女の密告』の文庫が復刊された。たちまち読んで、さらに飢えた。もっと読ませてくれ! そう切望したのは私だけではなかった。palmbooksが多くの声に応えて刊行したのが、本作『初子さん』だ。
『クロワッサン』1147号より
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