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『名探偵たちがさよならを告げても』藤つかさ 著──壊れやすいからこそ、ミステリーとして書く

話題の本、気になる本。文芸評論家、書評家、作家として活動し、『日本の犯罪小説』で第78回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)を受賞した杉江松恋さんが紹介する一冊。

文・杉江松恋

『名探偵たちがさよならを告げても』 藤つかさ 著 KADOKAWA 1,980円
『名探偵たちがさよならを告げても』 藤つかさ 著 KADOKAWA 1,980円

今、物語が動いた。

小説を読んでいて、そう感じる時がある。小説は文字で書かれた虚構だが、ここで生命が吹き込まれ、現実とは違う世界が展開し始めるのだ、と確信させられる。

藤つかさ『名探偵たちがさよならを告げても』にもそういう一行があった。主人公は私立比企高等学校3年生の深野あずさだ。第一章、教室で同じクラスの三条柚と会話をしている場面でそれは訪れる。数学教師が入ってきて、柚との会話は中断される。そのときだ。

──唐突に「ああ、もうすぐ、卒業だな」と思った。

この一行であずさの見ている世界は、見違えるような生彩を帯びたものに変化する。あずさは「卒業までにすべきこともまた、くっきりと輪郭を持ち始めている」と感じるのである。

本書は学園ミステリーに分類される小説なのだが、この箇所がすべての出発点であったことが後に判明する。序盤に運命の瞬間を持ってくるというミステリーの技巧が、これ以上ない形で用いられているのだ。だがミステリーとして云々というよりも、この一文と続く数行の稠密さを私は称賛したい。本作にはこのように、読者の心を掴み、感情を思いのままに制御してしまう文章が幾度も登場する。

もう一つ私が感嘆したのは小説の終盤、ある登場人物が重要な事実を明かす場面に置かれた文章だ。告白を聴いていた者は「まるで笹でできた船を川に流すように、そっと」先を促す。とても繊細で、すべての見え方を変えてしまうほどに破壊的な事実だからである。

本作の中心には、美しい文章でなければ書けないものがある。それは蝶の鱗翅のように、扱いが難しい。だから作者は文章の技巧を尽くしているのである。

作中で起きる事態の起点は、久宝寺肇の遺稿探しだ。久宝寺は比企高校の国語教師兼司書だったが、小説家としても活動していた。惜しくもがんのために前月亡くなったのである。その久宝寺に遺されたミステリー原稿があるらしいことがわかる。捜索の結果小説原稿はなかったものの、プロットは見つかった。ただしミステリーとしては不完全なものである。

このプロットに書かれたとおりの状況下で死者が出る、というのが作中で起きる事件である。童謡や物語など、他の何かをなぞったような形で起きるものをミステリーでは見立て殺人と呼ぶ。それに属するものだ。かねてより探偵になりたいと考えていたあずさは、事件の謎解きに名乗りを上げる。

見立て殺人にしろうと探偵、という図式だけならば、普通の謎解き小説だ。だが作者は、ミステリー読者には既視感のある設定を用いて、まったく違う小説を書いた。ありものの素材で作った容器の中に、迂闊に触れることが躊躇われるほどに傷つきやすいものを入れたのである。その取り合わせが本作の肝だ。論理的思考と常識の逆転を主たる題材とする、ミステリーでしか書けない物語である。

ミステリーとは何かを作者が考え抜いた形跡が小説には残されている。創作と誠実に向き合った結果、美しい小説が生まれた。

  • 杉江松恋 さん (すぎえ・まつこい)

    文芸評論家、書評家、作家

    2025年、『日本の犯罪小説』で第78回日本推理作家協会賞(評論・研究部門)受賞。

『クロワッサン』1146号より

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